銀二貫

「銀二貫」高田 郁 著

入院中に友人が差し入れてくれた本です。時代小説はあまり好みではなかったし著者の高田郁さんのことは全く知らなかったけれど、時間があったので読み始めました。

なんのなんの面白い!あっという間に夢中になり一気に読み切ってしまった。

時は安永七年(1778年)睦月。大阪天満の寒天問屋の主和助が船着き場の床几でくつろいでいたところ、突然彼の面前で、一人の侍が出て「拙者は建部源右衛門が一子、建部玄武と申す。これは父の仇討ちである」と美濃国苗村藩士彦坂数馬が切殺された。そこには10歳の息子が唖然として残されていた。玄武が息子にも手をかけようとしたところ和助は、懐から銀二貫を取り出し、仇討ちをした若い侍から子供を買い取る話をつけ救い出した。銀二貫は前年大火事で消失した天満宮再建のためにようやく貯めた大金だった。番頭の善次郎は驚き呆れてしまったが、藩士の息子鶴之助を松吉という名前をつけ寒天問屋の丁稚として育てる物語です。松吉は厳しい躾と生活に負けず育っていきます。

寒天問屋は大阪天満にあり、京都の伏見にある寒天製造屋から仕入れてきます。江戸時代の寒天を作る厳しい工程やそれを京都から仕入れて販売する商いの様子、その寒天を使って作る料理屋との取引。

天満界隈のにぎやかな町人の様子と、天満宮を大切にする人々。

何度も引き起こる大火事と復興。

そんな中で商人として着々と育つ松吉。料理人嘉平の娘いとはん真帆との恋の悩みもあります。仇討ちした玄武も後半出てきます。銀二貫の意味もわかります。

この物語に惹きつけられたのはもちろんですが、それよりも私を惹きつけたのは浪速言葉の美しさです。

私は京都育ちなので関西弁には馴染みがあり好きです。ですが最近の関西の漫才やお笑い芸人で話される大阪弁は品がないなあと常々思っているのですが、この銀二貫の小説で使われる浪速言葉の美しいこと!

著者は兵庫県宝塚出身で、関西弁には詳しいはずで、恐らく古い浪速言葉について調べつくされて書かれたのに違い有りません。

すべての会話を紹介したいけれど無理だから、一つの短い話し言葉。

「ありがとう」のこと、「おおきにありがとさんだした」。最後の “だした” は “でした” ではないところ。

江戸時代の浪速に頻繁に起こる大火事に対処する庶民の姿と、いまの日本に起こっている災害とがリアルにかぶっているところ、と、浪速言葉の美しさが、私の心に深く響かせる物語にしてくれました。

大変おもしろく読みました。

江戸時代の人情物語り、関西弁を愛する人が読まれると、感動すること請け合います!

 

 

 

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曙光を旅する

「曙光を旅する」 葉室麟 著

前回紹介した「蛍草」へコメントくださったS氏の紹介で「曙光を旅する」を購入しました。

曙光・・①夜明けのひかり  ②暗黒の中にわずかにあらわれはじめる明るいきざし(広辞苑)

と本の初めに説明されていて、まず「曙光」の意味を頭にインプットしてから読み始めました。

近代の日本に導いた源になる、幕末・明治維新からの歴史上の人物、彼らは最初から輝いていていた人ではなく彼ら自身が生まれ生活する中での時代の動きを鋭くつかみ、暗闇に曙光を放した人々のこと、その地、を訪ねた歴史紀行集です。

葉室がその足跡を訪ねたところは、坂本龍馬にゆかりのある京都以外は九州です。

私は夫の仕事の関係で、九州には13年住んでいました。その間持ち前の好奇心から九州の由緒あるところを訪ね歩いたので、なんと葉室麟が訪ねた場所を全部行ったことがあるのです。

キリシタンが関係する長崎や大友宗麟の大分などはカトリック信徒なので当時感慨深く見学しましたが、あとのところは本当に恥ずかしながら、その地に深く込められた歴史的事実には全く興味が沸かず、風光明媚な自然だけに目が行きそれを楽しんでいただけでした。

でも、この紀行エッセイは一つ一つ短いものですが、その地に宿る深い歴史を気づかせてくれ、その地の情景を思い起こしながら合点し深く感動しながら読みました。

国の発展を導く根源は曙光から始まり、その曙光を見逃してはいけないと、現在混乱する世界情勢のなか、世界少なくとも日本を動かす偉い人たちにはもっと本質を洞察してほしいと思いました。

それと蛇足ですが、葉室麟さんは福岡の西南学院大学出身で、先日銃弾で亡くなった尊敬する中村哲さんも西南学院中高卒、私の息子も3年間西南学院で学んだので凄く嬉しくなりました。

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蛍草

「蛍草  葉室 麟 著」

葉室麟という作家のことは全く知らなかった。歴史・時代小説のジャンルで数多くの賞も受けておられたようです。入院時に友人が差し入れてくれました。時代小説にはあまり興味をもっていなかったのですが、何のなんの面白く一気に読みました。

主人公は16歳の少女菜々。敵討ちが容認されていた江戸時代。藩士の家に生まれたが、父親は切腹を命じられ祖父母、母と死に別れ行き場を失ってしまう。しかし縁あって鏑木藩の上士・風早市之進の家で女中奉公と

して働き出す。将来を嘱望されている市之進と優しい妻の佐知、4歳の正助と3歳のとよに暖かく迎えられ穏やかな日々を過ごしていた。

しかしその幸せな日々は続かなかった。

優しい佐知は病に倒れ亡くなり、正義感の強い市之介は汚れた藩不正を正そうと水面下で働いていたが、悪徳藩士の悪巧みにかかり、お上からお咎めを受け江戸詰めとなり屋敷も取り去られてしまう。菜々は幼い正助ととよを野菜を行商しながら守る。ある時、市之進を追いやった悪藩士の中に、菜々の父を追いつめた敵(かたき)のお抱え藩士をみいだす。

菜々は敵を打つための厳しい武術修行に励み幼い子どもを守るための過酷な生活を、人情あふれる下町の人々に助けられ、明るく前向きな生活を続ける。

江戸時代の地方藩主の生活や人情あふれる下町の人々の様子が生き生きと綴られている。

過酷な生活を明るく乗り越えていく菜々が心につぶやいた「偶然ではなく天の配剤目には見えない大きな存在に守られ生かされている」の言葉を読んだとき、その言葉が私の胸に衝撃的に響いた。

葉室麟の他の小説も読みたくなった。

 

 

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死ぬ気まんまん

死ぬ気まんまん 佐野洋子 著

代表作「100万回生きた猫」の絵本作家、エッセイストとしても著名な佐野洋子さん。私の本棚でも何冊か紹介したお気に入りの作家です。

この「死ぬ気まんまん」は亡くなる10年ほど前に癌を患い、治癒したり再発したりされながらも作家生活をおくられ、亡くなる2年ほど前に、死に否応なしに向き合いながら書かれた3篇のエッセイです。

  • エッセイ・・死ぬ気満々
  • 対談・・佐野洋子と平井達夫(築地神経科クリニック医師)
  • エッセイ・・知らなかった-黄金の谷のホスピスで考えたこと

 

8月に思いがけず癌と向き合うことになった私にとって本当に身につまされる本だった。

3回は繰り返し読んだ。これまで読んだ佐野洋子の作品の根底にある彼女の死生観に目が開かれる思いがした。

*「死ぬ気まんまん」の1節

私は今が生涯で一番幸せだと思う。70歳は、死ぬにはちょうど良い年齢である。思い残すことは何もない。これだけはやらなければなどという仕事は嫌いだから当然ない。幼い子供いるわけでもない。

死ぬとき、苦しくないようにホスピスも予約してある。家の中がとっちらかっているが、好きにしてくれい。

・・・・・・私が書いた文章のよう!

*対談の一節

佐野:生きていることは何かと言うのがありますでしょう

平井:そうですね

佐野:ただ息をしていればいいのかというと、人生の質というのがあるじゃないですか。それを、何よりも命が大事と思うのはおかしいですよね。

平井:おかしいですよ。

佐野:そう思いますか?

平井:思います。医者はほとんどそう思っています。

・・・・・私もそう思います!

*知らなかった、ホスピスについて

頭の神経が狂ってしまっている私は、こくこくと目が良くなっていのだった。遠くの椎ノ木の葉っぱが一枚一枚くっきりと、細い金の色にふちどられているのが見えてしまう。それはとんでもない疲労を私にしいた。一番何に似ていたか。ゴッホの絵に似ていた。

・・・・・

私も病室の窓から流れ行く雲を飽きずにながめた。自然が好きな私でも、病気にでもならないとゆっくり天空を眺め死生観を思い巡らせることはなかった。

 

佐野さんの「死ぬまで人は生きているのだ」の言葉に「そうだそうだ。死ぬまで生きて見せる」と気合を入れさせられた本でした。

 

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風の中のマリア

「風の中のマリア」 百田尚樹 著

孫の高校文化祭で1冊100円5冊で1冊おまけ。というのに飛びつき6冊手に入れたうちの1冊。

(前回紹介した「戦争童話集」もそのうちの1冊でした。)

「マリア」ということでキリストの聖母マリアかなと思って購入しました。

ええっ?1ページ目からの爽やかな美しい文章の流れにびっくり仰天。書き写してみます。

・・・・・・

第1章 疾風のマリア

マリアは木立の中を縫うように飛んだ。

太陽はまだ昇りきっておらず、深い林の中は薄暗かった。

林を抜けると、崖の上に出た。視界が急に開け、眼下に深く落ち込んだ谷が見える。

マリアは谷の上を軽やかに川下に向かって飛んだ。

東の空に朝日が昇ってくるのが見える。川面が太陽の光を受けてキラキラと光る。

陽射しを浴びて、体温が上がってくるのがわかる。背中の筋肉が温められるにつれて、翅の回転速度が上がり、飛行速度が増す。

、、、、、、

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マリアは聖母マリアではなく、オオスズメバチのメスの働き蜂だったのです。

オオスズメバチ帝国を支える、たった寿命30日の働きバチの戦士であるマリア。

子を生み続ける女王蜂「偉大なる母」を守るために、恋もせず、子も産まず、命を燃やして闘い続けるマリアと働き蜂仲間。

赤ちゃんたちの食料を求め飛び回る。バッタ、トンボ、カマキリなど。食料を奪い合う敵はアシナガバチ、キイロスズメバチ、モンスズメバチとの熾烈な闘い。一番恐れるのは人間。それ故人間の集落には近づかない。

私は蜂を見つけると刺されたら大変と殺虫剤をシュー。山荘にスズメバチの巣を見つけた時は業者を呼んで駆除したこともある。

なんと酷いことをしたのか。無知を恥じるばかりである。蜂達にはそれぞれ守るべき帝国があり懸命に生きている。人間を襲うことはしない。殺されそうになったときに毒を刺し自分は死ぬ。

巻末の解説で昆虫に詳しい養老孟司氏が「極めて学術的に描かれていながら、同時に冒険小説のように力強く感動的なドラマ」であると絶賛しておられる。

蜂を擬人化した小説というより、人間を擬蜂化(?)したような気分になり蜂の世界にどっぷり浸からせてもらった素晴らしい小説でした。

養老氏が言っているように虫にも「意識みたいな活動」があるという研究もされているらしい。

う~ん。山川草木悉有仏性。考えさせられた小説でした。

 

 

 

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戦争童話集

「戦争童話集」野坂昭如著

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焼跡に始まる青春の喪失と開放の記憶。戦後を放浪し続ける著者が、戦争の悲惨な極限に生まれた非現実の愛とその終わりを<8月15日>に集約して描く万人のための、鎮魂の童話集。

・・・

と本の表紙にかかれているけれど、それはそうですが15篇の短編はどれも大変美しく、読むと静かな感動と鎮魂の思いが心に波打ってくる小説です。

15篇の書き出しはいずれも、昭和二十年八月十五日の1行から始まります。

あの悲惨な戦争の渦に現状がわからなまま巻き込まれた、小さな小さな幸せを守りつつ死んでいった(殺されていった)人々子供や動物の物語が書かれています。

大人も子供も万人が読み心に刻み込むべき感動の小説でした。

読んでください。

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蜜蜂と遠雷

「蜜蜂と遠雷」 恩田陸 著

3年に一度開催される国際的にも有名と言われる芳ケ江国際ピアノコンクールに挑む若者がテーマです。

この本は直木賞と本屋大賞をW受賞し文庫化されたので購入しました。

日頃からピアノ演奏を聴くのが好きだし。

粗筋はうまく簡単に書けないので、幻冬舎からの宣伝文章を書き写させてもらいます。

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ピアノコンクールを舞台に、人間の「才能と運命」、そして音楽の「一瞬と永遠」を描ききった青春群像小説。

・自宅にピアノを持たない少年・風間塵  ・天才少女としてCDデビューしながら突然ピアノが弾けなくなった栄伝亜夜 ・音大出身、妻子持ちのサラリーマン高島明石 ・‘完璧な技術と音楽性の優勝候補’とされるマサル・C・レヴィアナトール

彼ら4人の天才たちが繰り広げるコンペティション(競争)という名の自らのとの闘い。第1次から第3次予選、そして本選を勝ち抜き優勝するのは誰なのか?

 

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<譜面通りに正確に作曲者の気持ちを感じながら、ピアノをうまく弾くこと>だけでは優秀なピアニストとして評価されないということは、よく言われていることです。だから日本人は優勝しないとか、、、。

一次予選は書類選考で選ばれた90人。第二次予選に残ったのが24人。3次予選で残ったのが12人。

さて上記の4人うち優勝するのは誰か?

1次から3次まででの選曲は何曲あると思います?バッハ、モーツアルト、リスト、ブラームス、ショパン、ラフマニノフ、ストラヴィンスキー、ドビュッシー、ベートーヴェン等々(本の巻頭に曲が全部書かれています)作曲者の名前は知ってはいるけれど、第○番〇〇曲と言われてもさっぱり分からない。

だからでもあるでしょう読者のために一つ一つその演奏曲から醸し出されてくるイメージなどの解説(?)があり、その曲をどのように演奏されているかの批評が審査員の言葉で述べられています。それはそれ恩田陸さんW受賞作者でもあるから、曲の持つ幻想的な描写などが見事に書かれている。

「蜜蜂と遠雷」という題の意味は、読むとわかるので読んでみてください。

 

興味深く感動もしながら読みましたけれど、途中何度もウトウトしてピアノが奏でる夢の世界に導かれました。

ピアノ曲に詳しく、演奏を聴くのがとてもお好きな方は読まれると感動されるでしょう。

心配なのは、ピアノを弾くのを普通に楽しみにしている人たちはこの本を読むとピアノを弾くのが好きと人に言うのが恥ずかしくなるんじゃないかと思いました。

私はピアノを弾けないからいいのですけれど、、、。

 

 

 

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「侍」 遠藤周作 著

再度キリシタン関係の小説です。

侍・支倉常長(はせくらつねなが)をモデルにした小説です。資料としては数少ない史実を元に、著者が思いを馳せて書き上げた作品です。

時は1614年、徳川家康がキリシタン追放令を発布し、多くの殉教者を生み、バテレンや高山右近などの大名も国外追放となり布教活動は終結を迎えることになったときのことです。

仙台の藩主伊達政宗は地元にノベスパニア(メキシコ)との貿易をおこし長崎のような貿易港を月の浦の入江に持ちたいとの野望を持っていました。そのため江戸で通詞を務めていた布教を再建したいという密かな野望を持つ宣教師のベラスコと、キリシタンのことなど全く関心もないむしろ嫌っていた出征欲もない田舎侍の支倉六右衛門を使節に選びノベスパニアに出帆させたのです。2ヶ月を掛け荒海を超えてようやくメキシコにたどり着くも日本では、ますますキリシタンは撲滅され貿易も楽観視は出来ないという情報が現地にもたされていて、メキシコの教会からも住民からも全く歓迎されません。こうなると後はローマ法王に直訴するしかないとベラスコは思いローマにまで足を延ばします。ベラスコが率いる支倉達日本人達は、日本での布教が貿易を呼び起こすのだといわれ、全くキリシタンになる気はないのに洗礼をうけます。それも功をなさず散々な目にあって帰国するのですが待ち受けていたのは、東北にまで及ぶキリシタンへの迫害。外国との通商も禁止されていたのです。支倉達は信仰心はまったくなくして洗礼を受けたことをお上に訴え、キリストへの教えをむしろ喜んで捨てたのにかかわらず聞き入れられず支倉一族は潰されてしまう。

絶対の権威のあるお上の命に従い、ノベスパニアに送られ、不本意ながらキリシタンになったのに無残にも切り捨てられた侍支倉は、自分がこれまで深く考えもなしに信じていた神って何なんだろう。彼の地では、神としてどこの家にでも掲げられ崇められていた見すぼらしい磔刑に処された一人の男の姿が脳裏に浮かぶのであった。

旅の途中で出会ったボロをまとった元修道者の日本人の言葉「その人、我らの傍らにまします。その人、我らが苦看の嘆きに耳を傾け、 その人、我らと共に泪ぐまれ、 その人我らに申されるには、現世(うつせみ)に泣く者こそ倖いなれ、その者、パライソ(天国)にて微笑まん。」に思い巡らすのでした。

遠藤周作は「この本は自分の生き方について書いたものです。」と言っておられたという。

確かにキリスト教を信じることの深い意味、重み、禍などが、書かれていると思いました。

遠藤周作も私も幼児時に自分の意志もなく洗礼を受けたので、キリストへの信仰心について感じるところに共通点があり大変興味深く読みました。

 

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ガラシャ

「ガラシャ」 宮木あや子 著

この小説に描かれる細川ガラシャ夫人はまたまた違った視点からなります。

戦国時代、権力争いによる戦続きの世、翻弄される男たちの影には家を守る女たちも存在します。政略結婚が当たり前、側室も当たり前のなかに生きる女たち。

キリシタンに救いを求め命を神に捧げた聖なる細川玉カラシャの生涯には信長に謀反を起こして殺された明智光秀の影響も濃くありそのお家騒動のなかに生きる人々のことが、この本「ガラシャ」から「そっかあ、そういうことかあ」とかいう感じで読み取ることが出来ました。

物語の軸になるものは、<戦国純愛絵巻>であり、嫁いだ後にはじめての恋を知った玉子はガラシャと名を改め、異国の神に祈り続ける。彼女に献身的に使える侍女糸もまた(注:先日紹介した芥川龍之介の「糸女の覚書」はガラシャを斜めから見た糸女という侍女だったが)、報われぬ愛に身をこがし神に救いを求め、玉子にもキリシタンへの道に導く。

父・明智光秀、夫である細川忠興、舅の幽斎―想えば想うほどすれ違う恋人たちを描く渾身の恋愛長編。

もちろんフィクションの小説ではあろうとは思いますけれど史実を忠実に調べそれを小説に膨らませて、現在にも通ずる女性の胸の奥に秘められた思いを垣間見ることができ興味深く面白く読むことが出来た。

特にキリシタンの関心のある方に読ませたい本でした。

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火花

「火花」又吉直樹 著

お笑い芸人の又吉さんが2015年の芥川賞を受賞と聞いた時は驚きました。又吉さんへのインタビューで愛読書が太宰治というのも聞いて正直言うと少し驚きました。お笑いの人の愛読書に結びつかなかったからです。ベストセラーになった「火花」に興味があったけれど、タケシさんやタレントさんの書籍を読んで感動しなかったから購入しなかったです。恥ずかしながら完全にタレントさんに対する偏見でした。

又吉さんの漫才は聞いたことがなく彼のことを知らなかったのですが、その後、時々テレビに登場される又吉さんを知り大変好感を持ちファンになりました。なかでもEテレのヘウレーカという番組は大変おもしろい。又吉さんが自然界の不思議を専門家から説明を受ける番組です。これまでの放映ですごく感動したのは「隙間植物」についてと「蟻」についてです。そのことを研究されている専門家と街を歩きながら説明を受ける番組ですが又吉さんの口癖「うーん。なるほど。ふんふん。」といいながら、発せられる質問とか相槌が優れたお笑い芸人にしか出来ない発想がありとっても面白いのです。そして口調がとても物静かというところが高感度大。やさしい大阪弁がとても良い。さんまさんのようにやかましい大阪弁でないところが良い。

さて「火花」ですが、図書館で見つけました。

主人公の徳永が漫才を志し同級生の相方山下と組んで、東京に出て小さな事務所に所属しながらスパークスという名前で小さな舞台に立たせてもらいながら修行をする話です。熱海の花火大会見学の群衆の前に前座として設けられた舞台で、誰からにも無視され受けない漫才を披露していたとき、アホンダラという漫才コンビと同じ舞台になり、アホンダラの4歳年上の神谷さんに衝撃的に惹かれ師匠にしてもらうことから話が始まります。

徳永はスパークスとして東京で、神谷はアホンダラとして大阪の舞台を回りながら、二人は師匠と弟子の関係が続きます。二人の生活、二人の会話は漫才そのものの本質を突くものであり、私はどんどんひきつけられました。

「火花」は単なる人気ものになった漫才師のシンデレラストーリーではないです。生活苦を経て成功する話は当たり前。それよりか、お客さまが喜ぶ、驚かせる、笑わせるネタを血の汗を流しながらも考えぬく技。でもそれは頭で考えるようでは偽物、日常の生活、日常の会話は体から自然に湧き出る面白いネタとならないと本物にはなれないというストーリーです。

弟子になった徳永に著者はダブらせているようですが、時には神谷に著者の思いを紡いでいるように読まされました。

「火花」を読み、漫才師に隠された才能と努力にリスペクトする気持ちになりました。

でも、芸人さんの中で、人の体について冷やかして笑いを呼ぶことや、頭をたたいたりする仕草で笑いを取ったりするのは本物でないと思います。またそのことを笑う大衆にも同調できません。

今、又吉さんは相方と別れざるを得なくなり漫才をやめて小説家になられつつあるとか聞いてますが、軽い大衆におもねることなく、今の自分を大切にしてほしいなと思いました。

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