「侍」 遠藤周作 著

再度キリシタン関係の小説です。

侍・支倉常長(はせくらつねなが)をモデルにした小説です。資料としては数少ない史実を元に、著者が思いを馳せて書き上げた作品です。

時は1614年、徳川家康がキリシタン追放令を発布し、多くの殉教者を生み、バテレンや高山右近などの大名も国外追放となり布教活動は終結を迎えることになったときのことです。

仙台の藩主伊達政宗は地元にノベスパニア(メキシコ)との貿易をおこし長崎のような貿易港を月の浦の入江に持ちたいとの野望を持っていました。そのため江戸で通詞を務めていた布教を再建したいという密かな野望を持つ宣教師のベラスコと、キリシタンのことなど全く関心もないむしろ嫌っていた出征欲もない田舎侍の支倉六右衛門を使節に選びノベスパニアに出帆させたのです。2ヶ月を掛け荒海を超えてようやくメキシコにたどり着くも日本では、ますますキリシタンは撲滅され貿易も楽観視は出来ないという情報が現地にもたされていて、メキシコの教会からも住民からも全く歓迎されません。こうなると後はローマ法王に直訴するしかないとベラスコは思いローマにまで足を延ばします。ベラスコが率いる支倉達日本人達は、日本での布教が貿易を呼び起こすのだといわれ、全くキリシタンになる気はないのに洗礼をうけます。それも功をなさず散々な目にあって帰国するのですが待ち受けていたのは、東北にまで及ぶキリシタンへの迫害。外国との通商も禁止されていたのです。支倉達は信仰心はまったくなくして洗礼を受けたことをお上に訴え、キリストへの教えをむしろ喜んで捨てたのにかかわらず聞き入れられず支倉一族は潰されてしまう。

絶対の権威のあるお上の命に従い、ノベスパニアに送られ、不本意ながらキリシタンになったのに無残にも切り捨てられた侍支倉は、自分がこれまで深く考えもなしに信じていた神って何なんだろう。彼の地では、神としてどこの家にでも掲げられ崇められていた見すぼらしい磔刑に処された一人の男の姿が脳裏に浮かぶのであった。

旅の途中で出会ったボロをまとった元修道者の日本人の言葉「その人、我らの傍らにまします。その人、我らが苦看の嘆きに耳を傾け、 その人、我らと共に泪ぐまれ、 その人我らに申されるには、現世(うつせみ)に泣く者こそ倖いなれ、その者、パライソ(天国)にて微笑まん。」に思い巡らすのでした。

遠藤周作は「この本は自分の生き方について書いたものです。」と言っておられたという。

確かにキリスト教を信じることの深い意味、重み、禍などが、書かれていると思いました。

遠藤周作も私も幼児時に自分の意志もなく洗礼を受けたので、キリストへの信仰心について感じるところに共通点があり大変興味深く読みました。

 

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