楽老抄

「楽老抄」ゆめのしずく 田辺聖子著
「私の本棚」で本を紹介するのを随分ご無沙汰してしまっています。
本をよく読んではいるのだけれど、紹介したいと思う本にめぐり会わなかった。というか、身辺に色々ややこしいとが発生して、読書に没頭できず、ダーとページを追うだけで、感動にまで精神が辿りつけなかったのではないかと思われます。
読んだ本が硬い本も多くてよけいに気分も沈みこみ、田辺聖子さんの本でも読めば気が晴れるかも、、と思って「楽老抄」を手にしました。
このエッセイは、田辺さんが老いを迎え老いを楽しみ、日々を愛おしみながら書かれたものであります。
でも今から22年も前に書かれたもので、田辺さん63歳の時のエッセイです。
今は86歳ぐらいと思いますが、最近の彼女の様子を見聞きしてもその頃と変わらない姿勢で生きておられ感心してしまいました。
楽老抄の中の「ひらかな文化・・読書のたのしみ」の項にある8編のうち、「教養はまわりくどいもんだ」は、とても共感できるもので面白かったです。
チョット長いけれど書き出してみます。
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 いつだったか、クリントン大統領が(注:来日した時)示した江戸時代の歌人、橘曙覧(たちばなあけみ)の歌を、大方の日本人は知らなかった。テレビ番組でそのことが話題になった時、数人のコメンテイターもみな、曙覧を知らないと言っていたと、新聞の投書にあった。
 投書者は60代の婦人だ。旧制高等女学校で曙覧を習ったが、昔の教育を受けた人ならみな知っていたものを、なぜ現代の人は知らないのだろうと不思議そうに書いていた。
 実は私も彼女と同じ気持ちである。アメリカ人がいまごろ曙覧を持ち出すのも興を覚えたが、日本人も知らない、というのが寂しかった・・(中略)・・私は人みな知っているとばかり思い込んでいた。
 その後、気をつけてみていると、私らの世代が常識と思いこんでいた古典教養が、いまの中年(注:そのころのbreeze)にもかなり欠け落ちているらしくみえる。いや、私ごときの古典知識や教養などタカが知れているものであるが、それでも日本人が日本の古典にあまり冷淡であると淋しい。
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田辺聖子さんの著書はとても読みやすくウイットに富み楽しいので好きですが、確かに辞書で調べてみないとわからない漢字読みや言葉が多のです。彼女が当然持っているべき教養とおっしゃっているものが私にないのが恥ずかしい。
最近以前夢中になっていた俳句に再挑戦をはじめたのだけれど、歳時記をよむと、美しい日本語の豊かさに気付かされ、同時に己の語彙の乏しさに恥じいるばかりです。
この「楽老抄」を読んで、楽しく老年を楽しむ可能性を見つけられたことに(今更教養をつけられるかは疑問だけれど)感謝する気持ちが湧きました。
老年期の友人、中年期の友人に読ませたい本と久しぶりに出会いました。

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無言館

mugonkan.jpg[無言館] 窪島誠一郎 著   講談社 画文集
無言館を訪れた。信濃路は紅葉が始まりのどかな秋日和でした。
無言館は1979年に長野県上田市の山麓に開設された、先の太平洋戦争で志半ばで戦死した画学生百余命、六百余点の遺作、遺品を展示した美術館です。
建物は館主窪島誠一郎自身が設計されたヨーロッパの僧院を思わせる荘厳な静けさの漂う美術館になっています。
畑と里山に囲まれてひっそりたたずんでいます。
戦争を知らないで育った窪島は、戦後50年もたった自分の中に、戦争に翻弄されながらも自分を慈しみ育ててくれたのに自分から感謝もされず死んでいった養父母への懺悔の気持ちが渾然とわきあがります。
そのことが、強制的に召集され絵筆を銃器に変えて戦わされ無念の思いで死んでいった画学生の思いと、養父母の思いとが重なり、全国の戦没画学生のご遺族を訪ね話を伺い慰霊の気持ちを込めて美術館を建てることを決意するのです。
ご遺族の方たちは、戦死報告の一枚の紙切れと一緒に、息子が又は夫が又は兄弟が遺してくれた絵を50年以上も大切に守っておられ、遺作を手放すのは苦しいけれど彼らの無念を多くの方に知ってもらい、また画学生同胞の作品と一緒に展示されることは戦没したものにとっても喜びになるだろうと思われて、みな無償で美術館に寄贈されたそうです。
絵は無言だけれど言葉以上のものを語りかけてくれます。
戦没した画学生の思いだけではなく、理不尽に命を奪われた世の中全ての者のこの世に遺した掛替えのない思いまでが伝わってくる。
近くでは3.11災害で、又は多くの事故で、遠くでは戦争や原爆などで亡くなった方たちの思いがこれらの絵から伝わってくる。
この「無言館」という本は、窪島誠一郎氏が美術館に収められた一部の絵に遺族から聴き出したエピソードを添えてまとめられています。
一枚一枚の絵に目が釘づけになり、胸には深い思いがふつふつとこみ上げてくる本です。
蛇足:
窪島誠一郎氏は赤ん坊の時父水上勉から言葉はきついですが捨てられた方です。水上氏晩年には和解されて親密な関係になられましたが。
著書に「父への手紙」や「雁と雁の子―父、水上勉との日々」などがあります。
香川照之と市川猿之助の関係を思いおこさせられました。

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誰か Somebody

「誰か」 宮部みゆき著 文春文庫
高層マンションをみあげるある街角で、1人の老人(65歳)梶田信夫が佇んでいたところ、フルスピードでやってきた自転車にはねられ打ち所が悪く死亡する。自転車に乗っていた人はそのまま走り去ってしまう。
梶田は、5年ほど前に妻を亡くし結婚直前の娘聡美と妹梨子との3人で暮らしていた。
彼は今多コンツェルンという大会社の会長の専属運転手であった。
79歳になる会長の今多嘉親はバリバリの実力者でありその娘菜穂子の婿である杉村三郎が、会長の命によって事故の真相を調べることになった。
杉村は昔映画館で痴漢にからまれた菜穂子を助けたことから愛が育ち、結婚ということになり、結婚を期にこれまで勤めていた児童書の出版社から今多コンツェルンの広報部に転職する。急にお金にも不自由しなくなり豪邸に住むことになったのだが、大会社の娘婿であることに常に引け目を持っていた。
この「誰か」というミステリー小説は、平凡で善良な杉村が素人ながら事件の真相を探っていくことから登場人物の生い立ちなどが解明されていくのですが、ワクワクドキドキすることが全くなかった。
登場人物全てがここまで魅力のない小説は珍しいのではないかしら?私個人の好みによるんでしょうが。ミステリーで極悪人がないというのもどんなもんでしょうか?
ケイタイの着メロが同じということから彼と彼女が付き合っているということを見破る手口もあまりにも陳腐。
<平凡な生活の小さな事件から深みにはまる、宮部みゆきの真髄>と推奨されていましたが、もっともっと深いところに沈んでいる真相をえぐり出してほしかった。

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黒い春

「黒い春」 山田宗樹 幻冬舎文庫
―あらすじ(ブックカバーより抜粋)-
覚醒剤中毒死を疑われ監察医務院に運び込まれた遺体から未知の黒色胞子が発見された。
そして翌年の5月、突然口から黒い粉を撒き散らしながら絶命する黒手病と名づけられた犠牲者が続出。対応策を発見できない厚生省だったが、1人の歴史研究家にたどり着き解決の発端をつかむ。そして人類の命運を賭けた戦いが始まった・・・。傑作エンタテイメント巨編。
未知の病原菌。
医学の発達は目覚しく、心臓病や癌による生存率はたかまっているようだが、これからの時代、未知なる病原菌による死亡率も高まってくるのではないかという恐怖を覚える。
一つは東日本つなみ大震災による原子力発電所の破損が人間にどのような影響をおよぼすのか、皆目わからないことが人々に不安感を呼び起こしている。
「黒い春」が書かれたのは震災以前のことであるが、未知なる病にたいする恐怖を充分つたえてくれる。
病原菌発生の場を突き止めるところにまではいったけれど、病原菌に犯された患者の救済まではいかなかった。
又その病原菌の発生は、どうも小野妹子の遣隋使にひそむ謎とも関わっているらしいという史実にも行き着く。
病原菌の発生は昨日今日に起こったのではなく長い長い道をたどって今に伝わるということも分かる。
現在地球上には異変を誘発する要因は溢れるように存在する。
放射能、酸性雨、オゾン層を破壊する強い紫外線、などなど。
そのような恐怖の現実に向き合って真摯に戦う研究者達、家族愛など、この本には人間同士のつまらない争いをしている場合でない!これからは、人々は力をあわせて未知なる悪と戦っていく時代になったんだよということを思い起こさせてくれ、希望を感じさせられる良書でした。

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『自分の木」の下で

「 『自分の木』の下で 」 大江健三郎著 大江ゆかり絵 朝日文庫
大江健三郎ご自身が四国の田舎にある里山の谷間に育った生い立ち、知的障害を持つ音楽家の長男光君から学ばれてきたことなどを根底に、子どもの持つ素朴な疑問(たとえば、何故子どもは学校に行かなくてはならないの?)に答えるかたちで書かれた、生きることについてのメッセージです。
子ども達に一番伝えたいことは、「取り返しが出来ないことをしないように」というメッセージではなかったか。
それは「暴力と自殺」です。
暴力は人を殺めること。戦争は大きな暴力であり、自殺も自分に対する暴力であるということです。めげそうになった時は「ある時間、待ってみる力」を持って決して諦めないで!!
それと「Up- standing man」まっすぐ聳える木のように、まっすぐ立って生きる人間になろうという呼びかけをされています。
人は、それぞれ自分の木を持っていて、この世に生まれてくる時、その木から魂がするりと出てきて身体に入り込み、死ぬ時はまたその自分の木のなかに戻っていくという祖母からの話を、ずっと大切にされていることなど、胸を打たれるエピソードが、妻であるゆかりさんの素晴らしい絵で生かされ、あたかも光君が奏でるメロディーにのせられているように語られています。
とはいえ、文章は結構難解。
実は私、白状しますと、大江健三郎の著書は数冊読もうと試みたけれど読み辛くて完読したのがありません。
新聞のコラムなどは読んでは氏に尊敬の念を持ってはいるのですが。
で、この「自分の木の下で」は、初めて完読した著書であります。
私と同様に大江健三郎の著書が苦手と思っておられる方(けっこういらっしゃるのを知っています)是非読んでください。感動しますよ。

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聖イグナチオ・デ・ロヨラ

「聖イグナチオ・デ・ロヨラ」16世紀の偉大な巡礼者 中川浪子著
世界最大のカトリック教育修道会であろうイエズス会の創立者イグナチオ・デ・ロヨラの伝記である。
日本ではイエズス会が運営する教育施設として上智大学・栄光学院中高・六甲学院中高・広島学院中高などが有名である。
私個人としてはそれらの学校施設やそこに所属しておられる神父様たちとの交流があり、イエズス会のカラーに馴染んではいましたが、創立者のイグナチオ・デ・ロヨラについてはよく知らなかったので読んでみたいと思った。
ラリグランス・クラブ発足の一つの要因にもなったポカラでの大木章次郎神父様、カトマンズのセントザビエル校のジェームス・ブリット神父様、私が所属する六甲教会の神父様方、日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエル、それぞれイエズス会士として共通がおありのような、まったくないような、、。
新ポカラの会の代表倉光先生が長年広島学院で教鞭をとっておられたこと、夫が六甲学院卒業生であること、孫が六甲学院に入学したことなども、創立者のことをよく知りたいと思ったきっかけである。
さて読後感ですが非常に感銘を受けました。
イグナチオ・デ・ロヨラは1491年にスペイン北東バスク地方の、サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼路に近いロヨラ城の1子として生まれた。彼の生涯は、まあ、俗な言い方をすればブッダの生涯と似たところがありましょうか。
イグナチオの時代はカトリックは頽廃し、ルッターたちの宗教改革を叫ぶグループの勃発、真のカトリックに立ち返ろうというイグナチオ達(フランシスコ・ザビエルも)、他方ではコロンブスの新大陸発見、南アメリカへの宣教と言う名の侵略、レオナルド・ダビンチもその時代、その後ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂。
その頃日本は戦国時代で信長→秀吉→家康。キリシタン迫害。
私の本棚で紹介した、「クワトロラガッツイ(天正遣欧少年使節の話)」や「大聖堂」などの物語とクロスオーバーして、ロヨラの伝記ということを遥かに上回る感動をうけた書物でした。

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復興の精神

「復興の精神 」新潮新書
養老孟司(解剖学者) 茂木健太郎(脳科学者) 山内昌之(東大教授) 南直哉(禅僧) 大井玄(医師) 橋本治(作家) 瀬戸内寂聴(作家・僧侶) 曽野綾子(作家) 阿川弘之(作家)
の9名による3.11で感じたエッセイ集。副題「これからをどう考えるか?」
今回この本の紹介を新聞紙上で見つけ、著名な学識経験者方の声をまとめて窺えると思い買い求めました。
被災地の復興については9名の方々全員がそれぞれ言い表し方は違っても、日本が、2千年も前から日本を度々襲った災害から乗り越えてきた史実を考え、今回の大災害も乗り越えられるとの希望に満ちた意見でした。
一方、政治家の無力を嘆くというのも全員一致した意見でした。
原子力発電の是非については、原子力に頼らず自然エネルギー開発が望ましいと言っても、日本のエネルギーがそれで賄えられるか否かの問題では具体的にどなたも答えが出せない状態で、それぞれの方が迷いながらも興味深い意見を述べられていました。
9名のうち私が一番楽しみだった方は阿川弘之さんで、58年前に書かれた彼の著書「魔の遺産」を最近読み直したところだったので、今回の震災でどのように思われたかが知りたかった。
「魔の遺産」は敗戦8年後に、主人公の作家が広島でのルポジュタールを頼まれ、原爆症の後遺症と必死に戦う人々のこと、被災者治療と言う名のもとにアメリカから派遣された医療班のABCC(Atomic Bomb Casualty Commission 原子爆弾傷害調査委員会)のまやかしのこと、など、むごい原爆症の現実、戦争に対する感慨、人類がうみだしてしまった核兵器という現代の悪魔の実験場となった広島の実情がつぶさに書かれていて、原爆の恐ろしさをひしひし感じ驚き感銘を受けた書物でした。
前述したように、阿川さんも地震津波の復興は出来ると断言されていましたが、かなり驚かされた記述がありました。その箇所は、
<特に在日米軍の大掛かりな人員と物資の協力、救助活動や避難所への支援を目の当たりにして、日米同盟がどれだけ大切か、アメリカこそ本当の友達として付き合うに足る国であることが、皆よく分かったと思いますね。>
<彼ら(北朝鮮)に勝手放題をやらせないためには、日本が必要最小限の核武装をすべきだと僕は思いますね。99.9%実際には使えない抑止力としてです。>
<今の首相に望んでも無駄でしょうが、この次か次の次の総理には、本気で憲法改正に取り組んでもらいたいですね。平和憲法を守れ、平和は素晴らしいと言っていれば平和に暮らせる、そういった甘ったれた夢から戦後66年ぶりに、もう眼をさましていい頃ですよ。>
という箇所です。
ちなみに私は、原子力反対、憲法改正反対、アメリカから距離を置くという甘ったれた夢を持っているので驚きました。
阿川さんの最後の<「禍転じて福をなす」を念じて行動を起こすことこそ、犠牲になった何万人かも、決して無駄死にではなかったことになる。>との言葉は、9名全ての方々に通じる言葉でした。

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ジーン・ワルツ

「ジーン・ワルツ 」 海堂 尊 著 新潮文庫
内容は本のカバーに書かれた案内をそのまま写させて頂きます。
「帝華大学医学部の曽根崎理恵助教は、顕微鏡下体受精のエキスパート。彼女の上司である清川吾郎准教授も彼女の才能を認めていた。理恵は、大学での研究のほか、閉院間近のマリアクリニックで5人の妊婦を診ている。年齢も境遇も異なる女達は、それぞれに深刻な事情を抱えていた・・・。
生命の意味と尊厳、そして代理母出産という人類最大の難問に挑む、新世紀の医学エンターテインメント。」
海堂尊の本は以前「極北クレイマー」を2009年7月に紹介して以来です。彼が取り組むテーマには、各著作の医療現場と微妙にシンクロしていると聞いていたのでその点も楽しみに読みました。
望んでないのに妊娠して中絶を求める患者、胎児が奇形とわかった妊婦、どうしても子どもが欲しいと願う患者、代理母出産の是非など、理恵医師の意見と対応には考えされられました。
最近、不妊症の人が増えているとか、異常出産が増えているとかいう話を聞いたことがありますが、私個人としては、人間の命の誕生を神秘的にみるというか、神様からの授かり物と考えるところがあって、体外受精や代理母のように、人間の手でもって人の生命を左右させる考えには拒絶反応が起こります。
来月出産を控えている身内がいるので、生命の誕生の不思議と命の重みをことさら感じさせてくれた良書でした。

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人質の朗読会

人質の朗読会  小川洋子著 中央公論新社
地球の裏側にある、一度聞いただけではとても発音できそうもない名前のある村で、日本人観光客8名が乗ったバスが反政府ゲリラにより拉致され人質にされる。いつ解放されるか分からないまま月日がたち、人質達は退屈を紛らわせるために、あるいは思い出をのこすために、1人ずつ自分の掛替えのない思い出を記し発表する時間を持った。最後の人が朗読を終えた時、隠れ家は政府側からの救出が失敗し爆破され、その結果全員は死ぬ。政府軍が忍ばせておいた録音テープが後日偶然見つかり全員の朗読が復元された記述がこの本である。
我々読者は、本の書き出しで全員が犠牲になることを知ってから朗読を辿ることになるので、なんとも苦しい思いにさせられる。
8名それぞれの思い出話は、小川洋子ワールドそのもので、ささやかな人生の一こまのなかに深い思いが満ちている。
人質達はいずれ救出されるであろう希望をもってそれぞれの掛替えのない想い出を語ったのではないか?
いや、そのことは重要ではないかもしれない。
私たちは死ぬ時期を知っても知らなくてもいずれ死ぬ。そんな当たり前のことを意識しないで一人一人掛替えのない思い出を持ちながら生きている。
この8名の朗読を聴く私たちはその掛替えのない想い出とともにこの人は死ぬんだと分かっていてとても苦しい。
この本は読んで切なくて苦しくなる。
時は今、東日本大震災で1万5千人以上の人々が1瞬にして亡くなったという現実と向き合っている。
そしてその人々は1人ずつ掛替えのない思い出を胸に持ちながら亡くなった。一つとして同じ思いではない。みんな違う。1万5千件の掛替えのない思いが断ち切られ葬られたという重みが否応なく浮かび上がる。
著者の小川さんは、震災のあとのインタヴューで「私たちは、亡くなった人々の生きた証の受け取り手でありたい」と話しておられた。
まさに死者への鎮魂の書であった。

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深い河

「深い河」遠藤周作著 講談社
ラリグランスクラブでは視覚障害者のためにLSG(学生寮)を計画中で、そのために本年度は資金集めのためのバザーを本腰入れて頑張ろうと思っています。
事始にお隣のガレージを借りてのガレージセールをしようと思っていますが、今年はネパール民芸品のほかに古本を置いてみようかなと考えました。
「私の本棚」で公開している様に読書が趣味の私のところにはどっさり本があるのです。
さてと、昔読んだ本から整理しようとまず目に入ったのが「深い河」。
著者の遠藤周作氏は終生、ヨーロッパのキリスト教と日本のキリスト教の違いにこだわり、全ての作品の根底にはそのことが埋もれていると言って良いと思います。
私も遠藤氏と同じく親から押し付けられたカトリック信徒で、彼の気持ちがよく分かり彼の著作はよく読んでいます。
「深い河」は、<遠藤周作7年ぶりの純文学書下ろし長篇小説、渾身の作>という評判を聞き、これは読まなくてはと、直ぐに買って読みました。1993年のことです。
でも読後感は、「ああ、いつもと同じテーマだな」と思いあまり感動しなかった記憶があります。
それで今、18年ぶりに「深い河」を手にした私はもう一度読み始めました。
話の細かいところは殆ど全て忘れていて、「え~っ?これは面白い!」と、ぐいぐいと引きつけられ一気に読みました。
確かにテーマは同じです。遠藤氏の、日本人としてのキリスト教を正面から捉え語る死生観、とことん弱い者蔑まれた者の側に立つイエス像が、直接文中に書かれてはいないのですが全体をすっぽり覆っているのです。。
私の最初と今の感動の違いは一体なんなのか?
考えてみると私自身、その本を読んだ時はけっこう呑気な専業主婦で人生の機微に鈍感だったと思います。そして2年後の思いがけない阪神淡路大震災。そこからガラッと私の生き方が変わったようです。
これからは自分の家族のことだけを考えるのではなく、生きとし生けるもののことを考える生き方をしなくちゃいけない、否、しなくちゃいけないじゃなく、する時が来たんだと、もりもりと力が出てきたのを思い出します。それが今のネパール支援活動に繋がっているのです。
だから18年前に読んで感動しなかった「深い河」が、今、凄いインパクトで私の中に入ってきたのです。
そうです。私は18年間で成長したんですよ。
物語は色んな人生を歩んできた7人の男女が、インドのガンジス河の火葬場を訪れて影響を受けるお話です。
物乞いする子ども、妖しげなヒンズー教の神々、淀んだ空気、灰色の浮遊物がただよう母なるガンジス、輪廻転生を信じる人々。今の私にはどれもイメージ出来る。
整理しようと手にした1冊目の本からもう手は止まり、この調子では、いつまでたっても本の整理は出来ないと、出るは嬉しいため息でした。

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