ゴールデンスランバー

「ゴールデンスランバー」 伊坂幸太郎 著 新潮社
アメリカ大統領のケネディ暗殺事件があってもう何年になるだろうか。あの時、オズワルドという男が突然犯人ということで直ちに射殺され事件の幕が降り驚かされた。オズワルドが犯人と信じる人はいなかった。世界中の人が政治的に仕組まれた暗殺事件とおもったものである。今も真相は闇に包まれている。
先日国際テロ組織の指導者ビンラディンがアメリカ大統領の許可のもと殺害されたが、私には意見を言えるほどの知識がないのでわからないけれど、「人間が人間を殺してはいけない」という考えを持っている。
「ゴールデンストランバー」では、金田貞義というぽっと出の男が首相となり、出身地の仙台で祝賀パレードが行われるなか、ラジコン飛行機による爆破で殺されてしまうところから始まる。
青柳雅春というハンサムで朴訥で真面目な青年が犯人に仕立て上げられてしまい、執拗な警察の追い込みと青柳の逃亡劇が繰り広げられる。
権力を守るためには勝手に犯人を仕立て上げ手段をえらばず追う警察、事件を面白おかしく煽るマスコミ。青柳は大学時代のクラブの数少ない同輩と後輩の協力、又下積みの労働者が理解してくれ逃亡の手助けをしてくれたりして、ギリギリのところで生き逃れていく。
文章の構造も面白く、犯人逮捕と言う名のもとに行われる交通規制や携帯電話やネットなどの情報のコントロールは、真実味があり怖ろしい。息をつかせず2日間で一気に読みました。
著者の「重力ピエロ」(2009/5/18にアップ)も、映画化されたけれど、この本のほうが映画化されると面白いかもと思って読んでいましたら、もう映画化されていました。主人公の青柳雅春役は堺雅人でした。観てみたいな。

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文章修行

「文章修行」 水上勉 瀬戸内寂聴 共著  光文社
分かりやすくて上品な文章を書きたいと常から思っているのだけれど才能がなくて情けない。
水上勉と瀬戸内寂聴の「文章修行」という対談集を見つけてヒントになればと思って購入した。
残念ながら良い文章を書くためのハウツー本では全くなく(あたりまえか!)、お二人の小説を書くにあたっての心情や、お二人が出会った先輩たちから賜った知恵などのようなことを、こもごも楽しく時には丁々発止で語り合うといった本でした。
大正時代から昭和初期の文豪達(谷崎潤一郎、川端康成、里見とん、小林秀雄、宇野浩二、今東光、円地文子、宇野千代等など個性的な小説家がいっぱい)と付き合う中で培ったことや、色事に理解があって詳しい水上と瀬戸内、仏門から逃げ出した水上と仏門に入った瀬戸内とが仏教についての思いの絡み合いや小説を書くときの心構えのようなことなど、とても面白く心に響くものがたくさんあった。
文章修行として参考になったのは、水上の「文章にはリズムがないといけませんね~」とか瀬戸内の「自分がものを書くときには美文にしようと思ったりして、どうしても気取るじゃありませんか。でも、気取ってはだめだということがわかりましねえ。だから、文章というのは、難しいことを知っていても、やさしい言葉で相手にわかるように書かねばいけないんです。」というところかな。
もっとも私は難しいことは知らないのでその点は易しくしか書けないというのは救われます。が、奥を知っていて易しく書いているのか、表面だけの知識しかないのかはすぐにバレるでしょうね。文章修行の道のりは険しいです。

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八日目の蝉

「八日目の蝉」 角田光代著 (中央文庫)   
蝉は地中で10年ほど暮らしたのち地上に出て7日で死ぬといいます。そこで死なないで「8日目を迎えた蝉」の運命は、、、。というのでしょうか?面白く読みました。
不倫相手のところに押しかけて6ヶ月の赤ちゃんを盗み出し、自分の子どもとして慈しみながら育てる希和子の逃亡生活の4年間。母子手帳もなく保険もなく怯えながらの生活。何度か危機を脱しながら最後に辿りついたのが小豆島。そこでとうとう誘拐犯として捕まってしまい偽の母娘の関係は終わります。
そこまでが蝉の地上での7日間かな。
それから17年後。ここからが8日目の蝉ということか。
娘の恵理菜は4歳で突然本当の父母と暮らすことになり当惑しながら成長するのですが、実の父母の仲は悪く家庭は荒れていて、偽の母娘のほうが愛が通い合っていたといえる関係だったのだけれど、恵理菜はその時代のことは全く覚えていないのです。そのあげく育ての親と同じようにダメ男と不倫して子どもを身ごもってしまった恵理菜の苦悩。
女・母性・娘の本性を、希和子と恵理菜が出会う人々を通して炙り出されるドラマティックな展開にひきつけられました。
それと男の登場人物は不倫相手の2人だけというのが面白い。とにかくダメ男です。
この本では男という存在はまったく当てにされずもう無視されています。
ダメな男に翻弄されながら真摯に人間を生きる女達の話ともいえます。
不倫や生みの母と育ての母というテーマは小説としてよく取り上げられているけれど、希和子の逃亡生活となる舞台が意表をついていて珍しくて奥が深く感動させられました。

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サバイバル

「サバイバル」 さいとう・たかお著 リイド社 (1巻~7巻)  
35年も前の1976年~78年にかけて週刊少年サンデーに連載されたマンガです。
単行本になった「サバイバル」を手にしたのは25年ほど前、息子が買ってきました。
あらすじは、主人公の少年鈴木サトルが友人達とキャンプに行って洞窟探検をしているときに、突然の大地震に襲われることから始まります。気を失ったサトルが気がついたときは、周りには誰もいなくなっていて、景色は一変しています。陸続きだったはずの土地は水没し、周りを全て海に囲まれた島になっていました。彼は生き別れた家族を探しに東京に向かって歩き始めます。生き残るために様々な知識や技術を身につけながら、時々出会う生き残りの善人悪人さまざまな人々との交流を交えて描かれる究極の手に汗握る少年のサバイバル漫画です。
夏の山荘に遊びに来る人はみんな夢中になって読みました。起こりえない事として読みました。山に自生するキノコや木の実をこれは食べられるとか、口々に言って話が盛り上がったものです。
ところがそれから10年後の1995年。阪神淡路大震災に遭遇。
ええっ!起こりうる!とまたまた恐怖に駆られて読み返しました。今度は他人事と思わずに。
それから又16年後の3月11日。東日本大震災。大津波。話す言葉も見つかりません。
作家さいとうたかお氏は30年も前に震災や津波で都市が壊滅することを想定されていて凄いです。漫画家って凄いなあと思います。今回は、もっと怖ろしい原子力発電所の損傷があります。
さいとうたかお氏は現在岩手県にお住まいと聞いています。今回の地震津波災害を体験されたはず。どんな思いを持たれたのか聞きたいと思いました。

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役にたたない日々

役にたたない日々」佐野洋子著  朝日文庫                                                         
佐野洋子さんの本は、母と娘の葛藤を書かれた「シズコさん」(私の本棚に2009年2月1日に紹介)が初めてでした。正確に言えば「100万回生きたねこ」をその前に昔読んだはずでしたが詳しく覚えてなくって「シズコさん」を読んでから読み直しました。
その後、「あれもきらい、これも好き」(私の本棚に2010年11月24日に紹介)を読み、「おれはねこだぜ」という絵本を読み、私とはかなり違う感性を持っておられる方だなあと魅力を感じていました。
5~6冊読んだだけで決め付けてはいけませんが、佐野洋子さんに持った感想は、現実の生活を楽しく受け容れながらも満ち足りた思いを持ったことのない方ではないかということです。<幸せを感じるのに罪悪感を持ってしまう>と言うような感じ。もちろん私の勝手な独断と偏見です。
今回、若い男友達のお母さんが佐野洋子のファンだと聞いて興味をもち、著者が癌で亡くなる最後のエッセイ集「役にたたない日々」を求めて読みました。
「役にたたない日々」という題名からもわかるように、癌を患いあと2年の命と宣言されていても、それがラッキーと淡々と受け入れ、日常の生活の中にまみえる掛替えのない大切な思いを、むしろ淡々と「役に立たないつまんないことだけれど、、、」といったノリで書かれた深い思いの籠もったエッセイです。
でもでも、彼女の言葉のいいまわしかたにはついていけません。例えば<泣いたら腹がすいたので、タッパーから野菜をどんぶりにとりわけてドレッシングをかけて食った。・・中略・・しかしこれ食いきるのに1日半、5回は食わねばならんなあ。>
私は食べ物を<食う>と話すことないのだけれど、、、<食う>という女友達も周りには1人もいないのだけれど、、。
<子供の頃は庭でしゃがんで小便をすると小便の勢いで地面に穴があいた。その穴に蟻がおぼれたりすると本当に嬉しかったものだ。>
実を言えば私も同じ体験をしたことがあり情景は分かるのだけれど、<庭でしゃがんで小便をすると小便の勢いで地面に穴があいた。>などという言い回し方は絶対に出来ないわ。
佐野洋子さんは谷川俊太郎と結婚されたことがあるのだけれど、彼との会話の中でそんな言葉使いをされていたのだろうか?それともエッセーではわざとガラの悪い言葉を書かれているのだろうか?
色々興味をそそられる作家である。

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大聖堂

大聖堂」ケン・フォレット著 矢野浩三郎訳 ソフトバンク文庫(上中下)                           
ヨーロッパに行っていくつもの大聖堂を眺めたことがあります。
空に高くそびゆる塔、美しいステンドグラス。金色に輝く祭壇。そこには日本人の私には及びもつかない深い神への信仰と憧憬の息吹を感じて感銘を受けたものでした。
ところが、この「大聖堂」を読んで、なんとまあ、うわべだけを見ていたことかと己の無知を恥じました。
大聖堂の建立に欠かせない権力の闘争、建設に携わる技師達の困難とプライドに思いを馳せて再度大聖堂に身を置きたいと思いました。
時は1120年イングランド。国王ヘンリー1世が死に、世継ぎを乗せた船ホワイトシップが難破し海に沈む。それは仕組まれたものでただ1人の生存者は拷問を受け殺される。遺された懐妊していた妻エリンの呪いの言葉で物語が始まる。王位継承を巡る醜い争い。カトリック修道院の権力争いも絡む無政府時代の幕開けである。
虐殺や裏切りが渦巻く世の中、神の宿る大聖堂を夢見る純粋なフランシスコ会のフリップ修道士と建築技師のトム・ビルダーの生涯を中心に据えて広がる大スペクタルです。
分厚い文庫本三冊。粗筋は膨大で私の筆力では書けないので、朝日新聞に載ったソフトバンク社の宣伝から抜粋させていただきますと、、、
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何時かこの手で大聖堂を建てたいーー果てしない夢を抱き、放浪の旅を続ける建築職人のトム。キングスブリッジ修道院分室長との出会いにより、彼の人生は大きな転機を迎える。建築職人の愛と情熱、教会と国王の権力争いなど、12世紀のイングランドを舞台に繰り広げられる波乱万丈の物語。
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と言う本です。
ドキドキハラハラ読み応えのある書物でした。
テレビドラマ化され、今NHKハイビジョンで毎週土曜日夜10時から放映しています。
見ごたえありますが、簡略化されていて本を読んでいないと内容が理解できないのじゃないかと思いますので是非本を読んでから見て楽しんでください。

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苦役列車

「苦役列車」 西村賢太著 第44回芥川賞受賞作
著者は、同時に芥川賞を受賞された朝吹真知子さんと生まれ育った境遇は天と地の差があります。
朝吹さんは代々フランス文学の名門育ちで慶応大学大学院で近世歌舞伎を専攻という。
かたや西村さんは「中卒・逮捕歴あり」こそが、わが財産と言い放し苦難連続の生活を過ごしてこられたという。
自分の恥をさらけ出して書くという私小説家に徹するという西村氏。
「苦役列車」は、評者の島田雅彦さんの記述によると、<古い器を磨き、そこに悪酔いする酒を注いだような作品>ということになるがそれはちょっとわからない。
人間の卑しさと弱さを自虐的に延々と描いている。家賃を滞納しながらその日一日食べていけるだけの日雇い労働者からどうしても抜けられないダメ男の日常の話である。
昨日紹介した朝吹真理子さんの「きことわ」も、それがどうしたんというように、ストーリー性があまりなかったように、「苦役列車」も思えばそれがどうしたんという話といえる。
前者の「きことわ」の生活背景は想像できるのだけれど、後者の主人公貫多の生活は、私にはまったく接点のない生活なので「へ?え。そういう生活からどうしても抜けられない人もいるんだ」ということで終わってしまう。小説の背景となる世界を知らない人々を引き込むためには、意外な展開や想像を絶する事件が起こったりしないと小説としてどうかなと思わされた。
ちょっと面白かった発見は、自虐的でえげつないダメ男の貫太が自分のことを「ぼく」蕎麦の事を「お蕎麦」刺身のことを「お刺身」と言っているのがなんとも可愛げが感じられて、どんな投げやりな生活をつづけても彼は人を殺したりはしないのだろうなと思った。
受賞者インタビューで、朝吹真理子が「西村さんといっしょの受賞で心強いです。」とおっしゃっているのはどういうことか知りたいなと思った。
結論として今度朝吹さんの本より西村健賢太さんの本を読んでみたいと思った。

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きことわ

「きことわ」  朝吹真理子著 第144回芥川賞受賞作品
「きことわ」とは一体どんな意味かと思ったら実に他愛のないものだった。主人公の二人の名前が貴子さんと永遠子(とわこ)さんということだったからだ。あ、他愛もないと言っては作者に申し訳ない。貴子さんは貴子さん、永遠子さんは永遠子さんと言う名前以外には考えられない思いが込められています。
貴子は8歳、永遠子が15歳。神奈川の葉山の別荘に夏になると東京からやってくるのが貴子。別荘番の娘が永遠子。二人は大の仲良しで海で遊び部屋で遊び絡み合いもつれ合ってはしゃぎまわるほどの仲良し。でも貴子の母親が心臓病であっけなく亡くなってから葉山におとずれることがなくなり関係は途絶え別荘は空き家になってしまった。それから25年たち貴子は別荘を売却することになり二人は25年ぶりに会う。
25年の間にそれぞれ体験するきっと苦しかったであろう出来事もさらりと交わされて何事もなかったように二人の心は寄り添う。
その二十五年ぶりに再会した二人の過去と現在を、夢と現実の境を行き来する形で描いた小説です。
現実の中に夢のようなふわふわした情景が組み込まれていて、その夢と現実のもやもやと交わる描写がこの小説の主題といえるかもしれない。そのもやもやが違和感がなくかかれている。
夢というのは寝ている時に見る夢もあるけれど、普段の生活の中で突如目前に現れる夢のような錯覚というか物陰に誰かが又は何かがす?と動いていくという感覚。それは決して奇怪なシュールリアリズムではなく不思議なことに凄く実感として共感できた。
読者にとっては「それがどうしたん?」というような頼りない物語と思う人も多いのではないかと思うんだけれど私はとても面白く読んだ。
作者の育った環境にもよるのでしょうがこの作品にはグロテスクなところが全くなく清潔で品格がある。私にも貴子と永遠子の関係のような体験があり読んでいて懐かしい気持ちにさせられた。
今回の芥川賞は朝吹さんともう1人西村賢太さんの2作品で、二人は全く異なる生い立ちで作風も違うというので、次に西村さんの「苦役列車」を読んで比べてみたいと思います。

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不可蝕民

「不可蝕民」山際素男著 光文社
ラリグランスクラブでは、ネパールのダリット(不可蝕民)の人々の支援をしているので、ダリットのことをもっと知りたいと思って読みました。
不可蝕民(ダリット)というのは、ヒンズー教で決められている4段階のカースト(身分制度)ブラーミン(僧)、クシャトリア(戦士)、バイシャ(商人)、シュードラ(農民)にも入れない人々(肉体動労、屍体処理、排泄処理)のことを言います。
日本でも江戸時代に作られた身分制度の士農工商というのがあり、そこにも入れないエタ、非人という虐げられた人々がいましたが、同じような仕組みのようです。
現代ではインドもネパールも日本も一応憲法で人権が保証されるようになり身分制度はあってはならないことになってはいるものの、差別感を払拭されるところまではいっていないようです。
特にインドでの不可蝕民にたいする人間差別、想像を絶する理不尽な拷問、虐待、殺戮は、1970年頃まで続き、今でも連綿と続いているということです。
著者は不可蝕民の人々が置かれてきた、置かれている現状を、ダリットの村を直接訪ね話を聞いてルポに纏められました。
ダリットに対する人々の暴力のリアルな著述には、背筋に寒気が走り吐き気を覚え目をそらせてしまいました。
世界の人々から崇められているマハトマ・ガンジーさえ、ヒンズー教の信仰から自身の高位カーストから離れられず、インド憲法の中に不可蝕民制度の廃止を折り込みはしたが、現実は、ヒンズー教が温存されている以上差別はなくなっていません。
ネパールでの不可蝕民への差別がどれほど酷いものであったか酷いものであるのか私にはあまりの恐ろしさで実感出来ていないのですが、ダリットの人々への教育支援は間違いなく必要なものなので、勉強しながら続けていかなくては、、、と決意しました。
ネパールのダリットのことについて、モティ・ギミレさんが、ラリグランスホームページ( http://laligurans.com )の通信31号でレポートしていますので、併せて読んでほしいと思いました。

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神父と頭蓋骨

〔神父と頭蓋骨〕アミール・D・アクゼル著 林大訳 早川書房
キリスト教では、人間は神が創造されたアダムとエヴァから始まると教えている。
今の時代、粘土細工でお人形を作るように神様がヒトを造られたと信じている信徒はいないであろう。
しかし、聖書に書かれているお話はすべて比喩により書かれた真実であり矛盾はない。とキリスト信徒の私は信じている。
この本は、一流の古生物学者、地質学者にして、類まれなる敬虔なイエズス会士であったピエール・ティアール・ド・シャルダン神父(1881?1955)の、伝記である。
彼は、科学と信仰を融合させた独自の理論を展開した偉人であるが、ダーウィンの進化論を支持したとしてイエズス会本部はもとよりバチカンからもかってガリレオが弾圧されたように異端者として無視され異郷中国に流される。それでも神父は信念をもって信仰を貫き、科学と宗教を統合しようと多くの論文を書き、イエズス会からは発表を禁止されても奮闘を止めることはなかった。
幸運にもティアールは流された中国で、北京原人の頭蓋骨を掘り出す大発見に立ち会う。
第二次世界大戦中のことで、その頭蓋骨の保存場所についても混乱が起きる。日本?中国?アメリカ?
救い主キリストの誕生を祝うクリスマスが目前にせまっています。
この日のミサでヨハネによる福音を朗読されることが多い。
<はじめに御言葉があった。御言葉は神とともにあった。御言葉は神であった。万物は言葉によって造られた。造られたもののうちに、ひとつとして言葉によらずに造られたものはない。・・・・>
いつピテカントロプスやホモ・サピエンスは、現世人類に変わったのでしょうか?
いつ私たち人類は、言語、芸術、文学、科学などの能力をもつ生き物に変わったのでしょうか?
ズルズル徐々に進化してきたのでしょうか?
この時期に、この本を読んでとても感銘を受けました。
物語が壮大で上手に本の紹介が出来ませんが、キリスト信徒にとって考えさせられることが多い良書です。

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