感じて歩く

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ルポエッセイ「感じて歩く」三宮麻由子著 岩波書店
全盲(シーンレス)の著者が歩きながら考えたルポタージュです。
ネパールでの視覚障害者のためのケアをするにあたり、見えない方たちの世界を知りたいと思って、最近その種の本を読み漁っています。
新聞の書籍案内で知りすぐ購入しました。
学ぶことがいっぱい、感動でいっぱいになりました。
まず著者が命名された言葉、「シーンレス」に納得。
私が見えているシーン(scene・場所・場面)が、取り去られた人々と、考えていいのかしら。
シーンレスの世界をマイナスのイメージとして捉えておられません。
白杖を自在に操りながら歩くことは、危険いっぱいの「戦場」を歩くことでもあるけれど、社会と繋がる道でもあり、自分の存在そのもを感じる世界を感じる手段でもあるわけです。
<街の賑わい、草木の揺れる音、小鳥の囀り、人々の言葉、さまざまな風や季節の匂いを愉しく感じながら、今日も歩く、、、、、、。>
シーンレスの人々だけではなく、障がいをもつ、あるいは持たない全ての人々にとって、誰もが歩きやすい道、否、生きやすい社会とは何かを、体当たりの経験から綴られた素晴らしいルポです。具体的で的を射た提言がいっぱいあり、なるほどなるほどと納得できます。
彼女は上智大学を卒業、アメリカ、フランスにも留学され、数々のエッセイや著作があり賞もとっておられるエッセイスト。今翻訳の仕事もしておられます。
3月11日の東日本震災を東京の仕事場で遭遇し、高層ビルからの脱出ルポもあります。
盲導犬と白杖との違い、障がい者と健常者との共存、絆について、しみじみ考えされられたことがいっぱい。
LSGの子ども達に生かせる多くのヒントも得られ、彼女の著書をもっと読んでラリグランスクラブの支援者のみなさまにも紹介したいと思いました。

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テンペスト

「テンペスト」 池上永一著 角川文庫
tempest.jpgのサムネール画像文庫本4巻からなる大スペクタル!
久しぶりに読み応えのある小説にめぐりあい夢中で読んだ。
仲間由紀恵が主演してドラマ化映画化舞台化もされた人気抜群の華麗な小説です。
舞台は19世紀末の琉球王国。独特の文化を持つ華麗な王宮の繁栄と滅亡を、一人の類稀な聡明な知性と美貌をもつ女性・真鶴の生き方を通して物語る。
少女は女であると言うことだけで学問を修められないことを不公平に思い、孫寧温という名の宦官となり性を偽って難関の試験を主席で突破し王府の役人として数々の政治的難関を救っていく。
しかしそこには数々の敵が存在し、謀反人として島流しにあったり、王の側室として迎えられたり、昼間は優れた役人寧温、夜は側室真鶴との1人2役をこなし王国のために身を粉にして働く。
王国を狙う清国と、配下におきたい日本国薩摩藩との間を上手く立ち回り、華麗な王宮生活が営まれる中、琉球にもとうとう世界の近代化が押し寄せてくる。
ペリーの来航により江戸は大混乱。日本国の鎖国が開け明治維新と流れていく変動には、寧温の力も及ばず、500年続いた琉球王国は崩壊、1879年若夏に日本国の沖縄県に吸収されてしまったのでした。
独立した国家が他国に侵略され属国とされてしまう悲劇は世界中に繰り返されてきたし現代にもあり、知識としては知っていたけれど、侵略される側の悲しみ、一つの文化が消滅してしまう恐ろしさ、無念さを身近な国の物語から実感として味わうことが出来ました。
10年前に、沖縄観光旅行に行って首里城をさーと見たことがあるが、今この本を読んで己の無知からもったいない旅行だったと思わされた。もう一度じっくり訪れて当時のことを思い巡らせたいとつくづく思ったことでした。

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亡命者

「亡命者」 高橋たか子 著 講談社
この本の主題になっている「亡命者」というのは、辞書に載っているように、いわゆる政治上の原因で本国を脱出して他国に身を寄せる人とは全然違った話で驚かされた。
自分という人間を実態としてとらえられない主人公の「私」は、日本からの亡命者という気持ちでパリに行き、滞在許可を得るために大学に所属しつつ学生として生活している。
生きるってどういうことなのか回答を求めてパリをさ迷ううち、日本でならばあたかも世捨て人が悟りを開くために禅寺で瞑想するかのように、大きな敷地を持つ観想が目的のカトリック修道院の一隅に住み、霊想をしながら籠もる生活を始める。
そこには同じような思いをもつ男性も女性も参加していて、それぞれが瞑想するための小さな部屋に住み、時間がくると聖堂で行われるミサに与ずかるというような生活である。
本の中盤から結婚して愛し合いながら別々の小部屋で瞑想しながら生活する夫婦の話に移っていって終わるのだが変わった小説だった。
要するに、我々人間は、前世(霊界・天国)から亡命者としてこの世に来て、死ぬことであの世(霊界・天国)に戻るということに主人公の「私」は気付くという本なのかな。
今まで考えもしなかった想像の世界に接して驚かされた。
前回本棚で紹介したヘレンケラーが感じていた霊界と合致するところがあって考えさせられた。

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わたしの宗教

「わたしの宗教」へレン・ケラー著 静思社
ラリグランスクラブで視覚障害児との付き合いが増えてきたので、彼らが住む暗闇の世界・考えなどを知りたくて、経験者のお話をきいたり本を読んだりしている。
その都度、私のあまりの無知さを思い知らされ、もっともっと勉強しなくては支援活動が誤った方向にいってしまうのではないかと心配になる。
へレン・ケラーは目が見えないだけではなく、聞くことも話すことも出来ないのに、ハーバード大学の女子部とラドクリッフ大学に学び2つの学位を贈られ、不幸な人々のために世界中をまわり、講演し、自らを捧げつくし、目を見張る業績を遺されたのであるが、その鍵を知りたいと思っていた。
そんな時に教会の図書館でこの本が目に付き読みました。
家庭教師のサリバン先生との葛藤は演劇の舞台でも取り上げられて有名になっているが、彼女は6歳の時に先生から水を手のひらに受けて、それがWarterという名前があると知らされ実感として受け容れるまで、暗黒の泥沼の中でもがき苦しむ日々だったという。
そのことがきっかけで、彼女の中に、見えて聞こえる人の世界を理解するようになり、ここが重要なポイントだが、彼女は見えて聞こえる人の世界以上に、自分が見えて聞こえて感じることが出来ることに気付くのである。
そこまでに至った路程がスエデンボルグという宗教学者の宗教観によって鮮明に理解できるようになり、そのことを、見える人と見えない人、聞こえる人と聞こえない人に伝えたいと世界中を旅したとも言える。
私たち見える人から考えると、見えない人は暗闇の中で生活していると思ってしまうのだけれど、実は暗闇ではなく光輝いていて、そこには風のゆるぎ、花々のカラフルな色で満たされ、人々の姿は形からではなく人がもつ魂の霊感を感じて人に接するというのである。
見えない人聞こえない人は、人間界から超えた霊界で生活していると言っていいみたい。
私は死んでも魂はのこると信じているがその世界はこの世の形あるものではない霊界なのだから、見えない聞こえない人は一足先にこの世に生きながら霊界に住んでいるとも言える。
ややこしい説明で申し訳ないけれど、言えることは、見えない聞こえない人の世界は、私の住む狭い世界より限るなく広い世界であるようだ。
見えない人が全てヘレン・ケラーのように感じているのか、それとも個人差があるのか分からないけれど、LSGの子どもからその素晴らしい世界のことを感じ取れたらいいなあと思っている。

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真昼の悪魔

「真昼の悪魔」遠藤周作著 新潮文庫
怖い本だった。
無邪気な微笑をうかべ業務をそつなくこなす美貌の女医は、心の底に自分でもどうにもできない虚無感を持っている。
実験用のマウスを手に取りぎゅーとひねりつぶしても嫌悪感も快感も何も感じない。これでもかと次々とむごい事いやらしい事をしても罪悪感を感じない。
苦しんでいる人を見ても何も感じない。悲しむ人を見ても別に何とも思わない。どんな罪を犯しても何とも思わない。
ある日上智大学の教授でもある神父を訪ねて「自分は異常なのか」と尋ねる。神父は「異常ではありません。貴女の心に悪魔が入り込んでいるだけです。」と答える。
「悪魔は、いつの間にか埃が部屋にたまるようにひそかに、目だたずに人間の心に入り込むのです。」
「ではその埃のたまった心の持ち主はどうなるのでしょう。どこでその埃が分かるのでしょう?」
「それははっきり分かります。たとえばその人間は神は勿論、人を愛する気持ちも失うからです。人を愛する気持ちを失うと、何事にも無感動になります。自分の罪にたいしても」
女医は神父の言葉を受け容れないまま去る。
そして、寝たきり老人の小林さんを見下ろしながら「この老人は誰にとっても迷惑な存在だ。彼女が生きているために看護師たちは疲れた時も世話をしなくてはならないし、医者も無意味と知りつつ治療を続ける。死んでくれた方がみなのためにどんなに有難いことか、、。」と老女を人体実験として使う。
病院内で次々不審な出来事が起こることに気付いた結核患者の学生難波は、そのことを言い出したため誇大妄想型精神病患者として精神科病棟に追いやられ、精神病患者にされてしまう。
たまたまその学生を知っていた前述の神父が、学生を助けだす。
結末は学生達の前で話す神父の講座に凝縮されている。
「この世に例えば新聞にのっているような悪だけがあるならば、どんなに簡単だろう。嫉妬のために人を殺す。貧乏のために強盗に入るそういう悪はみんな同情できるじゃないか。でも悪魔のやる悪はそんなもんじゃない。悪は目に見えるが悪魔は見えず電子顕微鏡にもうつらぬビールスのようにひとの心に入り込む。」
そのビールスをやっつけるのは「愛」と「神への祈り」。
愛のない結婚をする女医の将来については書かれていない。
この本は30年前に発行されているが、世の中ますます、例えば’殺す相手はだれでもよかった’といわれるような理解できない犯罪が増えてきている。犯人もなぜこのことが悪なのか理解できていない事件が増えてきている。
この本では、現代人の心の荒廃に鋭くきりこみながら、現代社会のどこにでも存在している目に見えない悪ついてが書かれている。
誰の心にも隙あれば入りこもうとする悪魔。私の心にも、、、。
怖い本だったけれど私に必要な本だった。

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終末のフール

「終末のフール」 伊坂孝太郎著 2006年初版
8年後に小惑星が地球に激突し地球が破壊され滅亡するというニュースが世界中のメディアから発表された。
[世界中は騒ぎ。各国の政府が知恵を出し合い、仰々しいセレモニーまで開いた後で、核兵器をうちあげたこともあったし、シェルターの建築も始めていた。けれどどれも、うまくいった様子は無い。ぼくみたいな小市民に連絡がないだけかもしれないけれど、それでも、好転した様子はまるでなかった。現実は映画のようにはいかない。映画の俳優たちは演技をしているだけだが、現実の政治家たちは本当に、パニックを起こしている。]
舞台は、あと8年と発表されてから五年経った伊坂幸太郎ワールドおなじみの仙台。仙台の北部の高台にあるヒルズタウンという団地の住人に起こる物語である。
<8年で地球が滅亡>というのから私は直ぐに有名な「たとえ世界が明日終わりであっても、私はリンゴの樹を植える」という言葉を思い出した。
この本には8編の家族の在り様が紡がれているのだけれど、いずれもリンゴの樹を植えようというような達観した考えを持ち合わせていない。
みな右往左往している。
5年間にわたって経済界の混乱、略奪、殺人、自殺などが彼らの周りに蔓延り、団地の住人もへり、成り行きで8軒の住人はなにかしら横の繋がりが出来て協力までいかないけれど、お互いの諦観を認め合いだらだらと受け容れるようになり、最後はあと3年、とにかく生き抜くことに専念しなくっちゃなというところで終わる。
精神科医キュウプラー・ロスの有名な論説、死に至る過程の5つの段階①否認②怒り③取引④抑鬱⑤受容の行程をこの8軒の家族がたどっているようにも見える。
著者は芥川龍之介の短編「くもの糸」のカンダタをイメージしたともいう。
今地球上で命あるものは全て必ず死ぬ。オバマさんも野田さんもアナタも私も。
みなその事実を知っていながら、その時期を知らされると急に怖ろしくなるようだ。その時を迎えるのが怖ろしいので、今自分で死ぬ方がいいと判断して、この本でも沢山の人が自殺する。
不思議な本だったが、私は、私の家族は、私の友人家族は、この本に登場する人々のような行き方はおそらくしないだろうと思った。いや、分からない、、、。

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カッコウの卵は誰のもの

「カッコウの卵は誰のもの」東野圭吾著
文句なしに面白かった。
最近の犯罪で欠かせないのが、犯人の割り出しの動かぬ証拠となる遺伝子DNAの検査である。ミステリー小説では、その検査でのトリックがミステリーの謎解きに使われるることも多い。以前紹介した「重力ピエロ」伊坂幸太郎著もそうだった。
昔から血液型で親子である証を見つけていたものだが、DNAの一致は紛うことなく親子であることを証明できる。
その遺伝子は複雑でその組み合わせによっては考えられないような能力を引き出すことが出来るのである。例えばオリンピック選手などのトップアスリート達の子どもは、運動能力などに、普通の人以上の遺伝子を受け継いでいる可能性があり、トップアスリートの子どものDNAを調べ、その遺伝子を見つければ幼児のころからトレーニングさせ、世界のトップに立てる選手を育てることが出来るのではないかと言うのである。
そこでそのことを研究する者が研究所組織をたちあげ、そのような有望な子どもを見つけお金をかけて育てることを考えた。奨学金を得られるから、好きでもないスキーのトレーニングに精を出しぐんぐん記録を伸ばす少年。スキーが好きだから必死になって記録を伸ばそうと努力するのに伸びない少年。
「カッコウは誰のもの」はその有能な遺伝子を持つ子どもをカッコウがひよどりにタマゴを預けるように、誰かが誰かに預ける又は誰からが預けられたというようなことが、スキーのアスリート養成を舞台に繰り広げられるミステリー小説である。
オリンピック選手にまではなったけれど入賞を果たせなかった緋田の娘風美には、自分にはない才能があることを見抜く父親。自分の子どもではないのかもしれない。妻は風美が2歳の時謎の自殺をする。湧き起こる疑問。
登場人物に極悪人はいない。あるのは家族愛。でも、怖い話である。
複雑なストーリーが絡み合って上手に紹介できないけれど、科学が進みすぎ神秘な部分が薄れていく時代の恐ろしさ怖さを考えさせられながら、私の好きなスキーの技が爽やかな動きを見せてくれて面白く読ませてもらった。
お奨め。5つ☆。

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ミーナの行進

「ミーなの行進」小川洋子著
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父を亡くして母子家庭になった朋子の母は、岡山を出て東京の洋裁専門学校で勉強することになる。それで朋子は1972年3月から1年間芦屋に住む叔母夫婦の家に預けられることになった。
芦屋のお屋敷は夢のような西洋館で大きな庭園もある素晴らしい家だった。
そこには飲料水会社の素晴らしくダンディで素敵な跡取り息子の伯父と、ちょっとアルコール依存症気味の伯母、伯父の母であるドイツ人のローザ伯母さん、お手伝いの米田さん、庭師の小林さん、従妹のニーナ、カバのペットのポチ子が暮らしている。従兄弟の龍一はスイスに留学中。
新幹線で、岡山からひとり芦屋にいった朋子は、ハイカラな重厚なお屋敷に驚くが、みんなから歓迎され、芦屋で過ごした1年間を朋子が思い出して書いている。
その時その時の情景が目に浮かぶようで楽しんだ。
以前お話したと思うが、背景が私のなじみのある場所の場合、リアルに臨場感を味わえて何倍も楽しめる。
住宅は恐らく阪急芦屋川から坂道を北上する六甲ロックガーデンに通じる道に面した高級住宅、図書館は村上春樹も利用したといわれる芦屋私立図書館、病院は私もお世話になっている御影の山手の甲南病院,阪神芦屋駅のAお菓子屋はマドレーヌが有名なアンリシャルパンテ、六甲山ホテル。海水泳は須磨の海岸。
ミーナのコレクションはマッチ箱、ペットはコビトカバ。体の弱いミーナはポチ子に乗って登校するという奇妙さ。ペットとマッチ箱は小説で重要な役割を担っているのは小川洋子の世界ならでのことで楽しい。
裕福な優雅な生活の中にも、それぞれ複雑な問題を抱えているらしき変わった人たち。
朋子は皆にすっかり溶け込み可愛がられながら生活する。
1年たって別れを惜しみながら再会を約束して分かれるが次に合うのは30年後。
震災にもあっただろう。家はもう存在しなくて、そこにいた家族は天国にあるいはスイスにと分かれて住んでいるが、そこにもあるはずの苦しみや悲惨さは、やさしで包まれていて、それなりの幸福な生活が自然体に続けられていることも分かり、なんともいえない平和な安らぎを与えてくれる本でした。
阪神淡路大震災のメモリアルデイに読むに相応しい本だった。

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銀色のかぎ針

「銀色のかぎ針」小川洋子著
「やさしい訴え」とあわせて読んだ小川洋子の短編集「海」を紹介します。
「銀のかぎ針」は、「海」に載せられている7編の短編のうちの一つです。
たった4ページの短さ!
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岡山から四国の高松に向かうマリンライナーの車内の出来事です。
車窓からみる田園風景、鷲羽山(わしゅうざん)トンネルをぬけて突如現れる瀬戸大橋と海。(懐かしい風を運んでくれるような小川洋子独特の爽やかな描写です。)
前に座った老婦人が編み物をはじめます。それを見ている私(主人公)は、祖母が5人のこどもと9人の孫達にいつもセーターやチョッキをせっせと編んでくれていた情景を次々と思い出します。
「高松までですか?」老婦人が話しかけてくる。「はい」私は答える。「祖母の13回忌の法要に」 橋を渡りきると、もうすぐそこが高松だ。
(というところで話は終わる)
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たった4ページの短い話の中に小川洋子の小説の骨組みが現れていると思う。
小川洋子は、日常のありふれた出来事や、打ち捨てられたような小物から、深くて大きなイマジネーションを引き出し、不思議な世界を作り出して読者を感動させる。
この短編の中で老婦人の使っている針は「銀色」とは書いていない。
でもこの短編の中には確かに銀色に光るかぎ針が存在する。

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やさしい訴え

「やさしい訴え」小川洋子著
久々の小川洋子。
主人公の瑠璃子の語りで話が紡がれる。
瑠璃子は暴力と浮気の夫から逃れ、父親が遺した古い信州の別荘に逃げ込むところから話が始まる。
別荘の近くに、チェンバロの制作者の新田と助手の薫と1匹の老犬が住み、黙々と仕事をしている作業所がある。
新田と薫はチェンバロを通して深い絆で結ばれているようだが、瑠璃子は不思議な新田の魅力に引き込まれ気持ちを止めることが出来ない。新田も薫も何か重い過去を持っていてチェンバロの音楽で癒やされている。
夫との離婚と三角関係。泥沼のような恋愛関係が展開されているはずなのに、そこにはチェンバロの静かな響きが森にいつも流れ、清らかな世界をかもし出しているような感じがする。
小川洋子が作品でえがく彼女独特の森の風景、湖水を囲む白樺林、霧が沸き立つ山の頂、そして音楽は、いつも私の心を静めてくれる。
「やさしい訴え」は全体に流れるチェンバロ曲のひとつだが、その曲を知らないけれど聞き惚れてしまう。
ややこしい恋愛関係をここまで清く書かれた恋愛小説を私は知らない。

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