赤毛のアン

anne赤毛のアン モンゴメリ著 村岡花子訳 新潮文庫

「赤毛のアン」シリーズ1が、今遠方にいる夫から送られてきた。

母の日ではあったのだけれど、一体どういう理由で贈る気になったのだか分からない。プレゼントです。と言ったが、おそらくアマゾンへの注文で住所記入欄を間違えたんではないかと思われる。

彼が「赤毛のアン」を読みたったのかと思うとそれもイメージが合わず可笑しい。

今NHK朝ドラで翻訳者村岡花子の生涯がドラマ化され興味深いとは言っていたが、、、。

夫婦の思いはお互いに伝わらない場合が多い。

私はすでに少女時代、夢中になって全巻読んだ。

だから本を開けもせずそのままにしていたが、折角だからもう一度読んでみようかと思い開いてみた。

少女の時代の記憶と随分違う。

両親を亡くし孤児院に預けられていたアンがグリン・ゲイルブ(カナダ)に住む無口で温厚なマシュウとしっかり者のマリラという老兄妹の元にもらわれていくところから話が始まる。

舞台はプリンスエドワード島。現在では橋が架かり観光客の訪れる人気スポットとなっている。朝ドラ「花子とアン」の巻頭の景色はそこで撮影されたと聞いている。

アンはニンジンのように赤い髪の毛や顔一面に広がるソバカスにコンプレックスを持っているが、それを跳ね除けるほどの空想が大好きな少女である。

豊かな自然に囲まれた「緑の切妻屋根」のが大好きになり、湖やせせらぎ、空に聳える大樹、地面を覆う草花にそれぞれ名前をつけたりしてどっぷり自然に浸かり幸せな気持ちになり、絶えず賑やかにしゃべりまくる。

私の記憶では、アンは素敵な家に預けられたのは嬉しいけれど、躾に厳しいマリラ小母さんと意見が合わず苦しみ、学校では容姿を馬鹿にされ許すことが出来なくなったけれど気になる男の子(ギルバート)との微妙な感情、腹心の友ダイアナとの素敵な交流、の話しといったところだか、、。

自然描写の文章が素晴らしく、そのことが本に大きく占めていると言えるぐらいだが、私は感動したと言う記憶がない。たとえば

<<まわりは大きな柳の古木や、丈高い樅にかこまれ、その下には、日陰を好む花が咲きほこっていた。・・小径をはさんだ花壇には古風の花が咲き乱れていた。バラ色のブリーディング・ハート、真紅の素晴らしく大輪の牡丹、白くかぐわしい水仙や、トゲのあるやさしいスコッチ・ローズ、ピンクや青や白のおだまきや、薄紫色のシャボン草、よもぎや、リボン草、やハッカの茂み、紫色のラン、らっぱ水仙、きゃしゃな、白い羽のような葉茎を見せているクローバーの花床、つんとすましかえったジャコウ草の上には、燃えるような緋色の花が真っ赤な槍をふるっている、といったぐあいで、蜂はのどかにうなり、風もたゆたいがちに、木々の梢をなでさすっていた。(149ページ)>>

素敵な雰囲気!

、夏の信州の高原の生活を思い、情景が目に見えるようでうっとりしてしまった。

今、私は、そんなお花畑の中を1人散策する時に想像の世界を楽しむ癖があるので、これって少女時代に読んだ「赤毛のアン」の感性が脳に刷り込まれているんだろうかと思った次第でした。

 

 

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奇跡のリンゴ

apple奇跡のリンゴ 石川拓司著 幻冬舎

「絶対不可能」と言われてきた農薬ゼロ有機肥料さえ一切使わずのリンゴ栽培を、9年に及ぶ苦労の末に成功させた木村秋則さんの実話である。

収入はなくなっても、家族もお父さんを支えてくれ、極貧生活に耐え、試行錯誤を繰り返し執念で成し遂げた。場所は青森県岩手山の麓である。

その苦難の道のりがNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」で取り上げられ、大反響を呼び全国から注文が殺到し予約は1年先まで埋まり、今では手に入れるのは難しくなっているそうだ。

もうそのお味ときたら、ただ甘いとかみずみずしいとか言うだけではなく、本来のリンゴの味、と言うことだけれど、私は本来のリンゴの味を知らないから想像しか出来ない。

番組のキャスターを務めた脳科学者の茂木健一郎さんの言葉を借りれば「薬漬けでもなく、肥料によってささえられることもなく、自然の中で生命としての本来の力を発揮することで生まれる「奇跡のリンゴ」であり、ひとつの見事な生命哲学の果実である。」ということである。

茂木健一郎さんからのたっての要望で、ノンフィクションライターの石川拓司氏によって1年半の取材を続けられて書かれた木村さんの苦悩と情熱がリアルに伝わるノンフィクション本である。

木村秋則さんの役を安陪サダオ、奥さんの役を菅野美穂で映画化され評判にもなった。

「奇跡のリンゴ」が簡単にスーパーで手に入らないのは分かるけれど、市販されているリンゴは農薬まみれかと思うと悲しくなってしまう。ここまで評判になっているのにリンゴ農家が無農薬栽培リンゴに取り組まないのは、そのことは不可能になってしまっている現状があるからだろう。

高原野菜を無農薬で栽培することの難しさを体験している私は、この本を読み、自然の中で営まれている草木の命虫たちの命と真剣に会話し戯れて共存する木村さんの姿に、ただ感動して唸るだけであった。

 

 

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クアトロ・ラガッツィ

「クアトロ・ラガッツィ」 若桑みどり著 集英社文庫(上・下)

副題 天正少年使節と世界帝国 

世界で未曾有のジェノサイド[大量虐殺]が、ナチによるユダヤ人虐殺だけではなく日本でもあったということを、世界に余り知られていないのではないか。日本の戦国時代、信長・秀吉・徳川時代のキリシタン迫害である。

日本のキリスト教(カトリック)は、1549年にフランシスコ・ザビエル(スペイン出身・カトリック・イエズス会士)が布教のために鹿児島に上陸したのが始まりである。

 ザビエルは布教のため国の権力者に認められることから始めようと行動を開始するが、日本は朝廷と大名の微妙な力関係があり戸惑いながらも布教の基盤を作り次の宣教師にバトンを渡してザビエルは帰国する。

 その時は信長の時代で、信長は天皇を超える現人神になることを目指し、そのためにも宣教師からのヨーロッパの情報を重要視しヨーロッパの文化を興味深く見、貢物を喜んで受け、その頃力を持ち出した仏教を抑え(例:延暦寺焼き討ちなど)表向きはキリスト教に好意的で(例:教会の建設や修道院や学校建設など)、多くの大名もキリシタンになった(例:大村純忠・高山右近)。

 そして1582年には4名の少年(クアトロ・ラガッツィ)がイエズス会ヴァリニャーノ宣教師によって選ばれ、日本の文化をヨーロッパに知らせ、ヨーロッパの文化を日本に持ち帰らせるために、ヨーロッパに派遣することになる。

 長崎からマカオを経てリスボンに2年の歳月をかけてようやく着き、その間に聡明な彼らはラテン語スペイン語を習得し勉強もしてヨーロッパ各地で大歓迎を受ける。

 8年後の1590年に日本に戻るが、すでに信長は本能寺で討死に、世は秀吉の時代になり、秀吉の野望のためにキリシタン禁止と迫害の時代に変わっていた。

 立派な教養を積み日本に帰った4人を待ち受けていたのは、使節を派遣した権力者たちの死とキリシタンへの未曾有の迫害であった。

4人のその後の激動は本で読んでもらいたいのですが、原マルティーノは国外追放、千々石ミゲルは棄教して行方不明、伊藤マンショは病死、中浦ジュリアンは穴吊りの刑で殉教死。

 宣教師達は毎日の出来事を本部のローマに報告をする義務があり、現在もイエズス会の歴史図書館やローマの古文書館などに彼等の報告や手紙が保存されていて、多くの記録を見ることが出来る。

 「クアトロ・ラガッツィ」は、著者が1549年のキリスト教宣教の始まりから、江戸幕府の徳川家光が第一次鎖国令を出してキリシタンが絶滅させられるまでの80年余りの苦難の道程を、信頼の出来る資料のみに従い、丹念に調べあげ書かれた類まれな歴史書である。第31回大佛次郎賞を受賞。

文庫本1000ページからなる長篇の中身は、日本だけではなく中世ヨーロッパの歴史の広大な波のうねりが全体を占め、その波間に翻弄されて生きた純真な4少年の姿が浮かび上がる。

私はカトリック信者で、今キリスト教迫害があれば、真っ先に棄教のフリをして逃げ回るような弱い信仰しかもっていないし、キリシタンの人々が厳しい取調べと拷問を進んで受け入れ、自分だけではなく幼い子ども達までが殉教の路を選んだことが分からなかったのだけれど、この本を読みその頃の時代背景を考えるに至って、少し理解することが出来た。

 現在地球に生きている私たちは、過去の数千万人からなる尊い命の犠牲によって生まれ生かされているんだと心に深く気付かされた本であった。

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回転木馬のデッド・ヒート

「回転木馬のデッド・ヒート」村上春樹著 講談社文庫

 「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、普通に暮らしている人の生活には、私が考えたり想像したこともないような事実がある。

村上春樹は言う(書く)。

 [ここに収められた文章は原則的に事実に即している。僕は多くの人から様々な話を聞き、それを文章にした。もちろん僕は当人に迷惑が及ばないように細部を色々といじったから、まったくの事実とはいかないけれど、それでも話の大筋は事実である。話を面白くするために誇張した所もないし、付け加えたものもない。僕は聞いたままの話を、なるべくその雰囲気を壊さないように文章にうつしかえたつもりである。]

ということで、この本には8つの短い聞き語り風小説がある。

1.「レーダーホーゼン」・・妻の友人から聞いた話。(レーダーホーゼンというのはドイツ人の男が履く皮製の半ズボンのこと)

2.「タクシーに乗った男」・・女画商から聞いた話。

3.「プールサイド」・・スポーツクラブのカフェテラスでテーブルで一緒になった男から聞いた話。

4.「今は亡き王女のための」・・王女様のように育てれた非の打ち所のない同級生の話。

5.「嘔吐1979」・・一時期働いていた雑誌社の同僚からの話。

6.「雨宿り」・・一緒に飲んでいた女の子から聞いた話。

7.「野球場」・・原稿を読んでほしいと持参した青年からの話。

8.「ハンティング・ナイフ」・・妻と海のリゾートのコッテージで休暇を過ごしていた時の隣の部屋に滞在した車椅子の青年からの話。

という8編である。

村上春樹という優れたインタヴューアが上手に話を引き出し文章にまとめたという形式だけれど、私は彼の創作だと思うなぁ。

都会の街角で、回転木馬のように現れては過ぎ去っていくありふれた人々が、個々に持つ人生を、スケッチするようにサラサラ書く村上春樹。

素晴らしい文章。ノーベル賞ものだと思うけれど、翻訳されたものではこの味を味わうことは出来ないでしょうねぇ。 

秋の夜長にさらりと読むには最高の本です。

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俳句という愉しみ

「俳句という愉しみ」 小林恭二 著 岩波新書

少しブランクがあったのだけれど、又俳句に懲りだした。

俳句は奥が深い。俳句というのは5・7・5という短い言葉で「書いていないことをどこまで含ませるか」というのが重要なのです。

拙い句が読ませる句になるには、俳句仲間が欠かせない。

仲間で吟行(野山を散策しながら共に句を詠む会)し、宿に戻って互いの俳句を提示し読み解く句会の楽しさは計り知れないものがある。

小林恭二の「俳句という愉しみ」はそのまえに出された「俳句という遊び」岩波新書の続編であり、一流の俳人たちが、流派を超えて句会を催したときの句会録である。

今回の参加者は、三橋敏雄、藤田湘子、有馬朗人、摂津幸彦、大木あまり、小澤實、岸本尚毅、岡井隆というそうそうたるメンバー。小林恭二も俳人であるがこの句会では主催者としてまとめる側になり句会録を出されることになる。

彼等の愉しくも真剣な喧々諤々の戦いは究極の遊びである。

吟行の場所は、厳寒の奥多摩、川合玉堂記念館のある御岳山峡。ハイキングによく行って知っている所なので、なおさら共感できる句に出会い、句会の醍醐味を味合わせてくれた。

ところで、私の句?披露するにはチョット、、、。すみせん。そのうちにきっと、、、。

 

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リハビリの夜

リハビリの夜 熊谷晋一郎著 医学書院
 今日、本棚の整理をしていて見つけた。
そうそう思い出した。凄く勉強になった本だった。
 著者熊谷晋一郎さんは、新生児仮死の後遺症で脳性まひに。小中高と普通学校で学び、毎日リハビリに明け暮れる生活をされていました。
 大学は東大医学部に進学、2010年現在は東京大学先端科学技術研究センター特任講師をされている。
 本書は、身体に合わないリハビリやトレーニングを18年間も強制され続けてきた体験と、そこから解放された道程を、全ての介護者に理解してもらい、うまく自分の意志を示せない身障者のために、書かれている。
 一般的に介護者は「基本的な健常者の体の動かし方」というものを身障者に教えトレーニングで身につけさせようと懸命になっている。介護される方はそれに応えようと、痛く体がスムーズに動かなくても懸命に努力する。しかし効果はあまりあらわれない。
 
 身障者の身体は緊張からカチカチに固まり、介護者に気を遣い、手本どおりにうまく身体を操れない自分に苛立ちコンプレックスも持つようになる。
 熊谷氏はこのようなリハビリのあり方に不審を抱き、大学進学を機に家から出て1人暮らしを始めることを決意する。
 両親は当然とても心配されたけれど、両親なきあと1人で生活できるようにならなければと、自立の一歩を踏み出す。何もない部屋の床にごろんと横たわった状態からはじまった。
 先ずはトイレ。汚物にまみれながら、トイレに自分を合わせるのでなく、自分にあったトイレを業者に作ってもらうことが必要だと気付く。
 そのようして手本のない所から、自分に合ったオリジナルな環境作りを一つずつ考え、実行していく。
 このようにして障害者自立のためのプロセス、介護者には必要な相手の思いを察する力、それが健常な体の動きを導き出していくことを確認する。
 脳性まひという、「脳の損傷が原因でイメージに沿った運動を繰り返すことが出来ない状態」からどのように固まった身体を解放していくかを、理論的に分かりやすく説得させてくれた。
 このことは脳性まひに限らず、体の自由が利かなくなった人の介護をするときに絶対に必要なことを教えてくれた。
 体の不自由な人は、自分の思いを介護者に上手く説明できないことも多いから、この本は強い説得力で代弁してくれて、介護者必読の本だと思った。

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野ばら

「野ばら」林眞理子著 文春文庫
 友達が「しょうもない小説だけど読む?捨ててくれていいわ」と渡してくれた本である。
 本当にしょうもなく、つまらない本だった。でも、いやな話だなあと思いながらも最後まで読んでしまったのは、林眞理子の洒脱で軽妙な文章のためだろう。
 主人公は、宝塚の女優千花とその親友である雑誌社のライター萌の2人の20代の女性である。
 千花は歌舞伎界のプリンス目される梨園の御曹司と恋愛中で、宝塚ではトップスターになれないと気付きはじめ、その御曹司とあわよくば結婚できるんじゃないかと思って逢瀬を楽しんでいる。萌は50歳も過ぎた作家に夢中になり、相手には病気の妻がいるのを知りながら作家を誘惑し自分のところに引きずりこんでしまう。
 結局千花は歌舞伎役者に騙され捨てられ、萌も夢と現実とのギャップを思い知らされるという、甘く苦い青春を描いた恋愛長篇小説である。
 著者の林眞理子さんは、日本文化や華やかな社交界などに興味をもってられて、結構つっこんだ取材をされ、ご自分もそのような社会に入り込み楽しんでおられることを、エッセイによく書かれているから、宝塚のことや歌舞伎界のことには詳しいとは思う。
 だから、この小説にあるように、宝塚のズカガールはみんな、トップスターになるために仲間を蹴落としたり有名人の愛人になることを夢見る人の集団であるような、又、歌舞伎役者はみんな浮気ばかりしているような世界かなと思わされてしまう。
 巻末の解説で作家の酒井順子さんが、<宝塚と歌舞伎という日本のキラキラ界におけるその絢爛さと濃厚さを味あわせてくれた小説>と絶賛されているが、私は全く共感出来ず、「しょうもない小説だった、費やした時間がもったいなかった」と思った。
 でも可笑しい事に捨てる気がしないで、「しょうもない本だったけど読む?捨ててもいいよ」といって次の友達に渡したのでした。

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終わらざる夏

「終わらざる夏」浅田次郎著 集英社文庫 上中下
作家浅田次郎が、どうしても書き遺したいと30年かけて書き上げたというのを新聞で知り、8月15日の敗戦記念日までに読んでおきたいと思っていた。
文庫本上中下。内容もずっしり重く感動をよぶ本だった。
(私にはあらすじを纏めきれないので案内書から抜粋します)
・・・・
昭和初期、西洋文化あふれる華やかな東京の翻訳出版社に勤める片岡は、いずれ妻と息子と共にアメリカへ移住するのが夢だった。しかし、時代は戦争へと突入、戦局悪化により、高齢の片岡にまで赤紙が届く。召集先は、千島列島の最先端・占守島(シュムシュ島)だった。
1945年の日本降伏宣言のあとの8月18日、島全体が日本最強の軍事基地だったところに、突然ソ連が攻撃する。圧倒的に日本が優勢だったが、9月2日に日本は敗戦国として戦いは集結され、軍人達はシベリアに連行され過酷な捕虜としての扱いを受ける。
片岡や、その家族の物語を軸に、志ある医学生、歴戦の軍曹、若き参謀、ソ連軍兵、女子挺身隊員など、夢を抱いたごく普通の市民達が戦争に巻き込まれていくさまを多視点で語り、戦争という理不尽を重層的に描き出す。
・・・・
赤紙一枚で強制的に兵士として何万人もの市井の人々が戦争に駆り出され、何万人の人々が殺された悲劇は、後世映像化されたりして語り継がれてはいるが、真実は教えられてはいないのではないか。
この本で真実を理解できたとはいえないが、実際にあった事実をしかと認識され、どんな理由があろうとも<戦争は絶対にあってはならない>ということが、はっきり分かった。
作家の佐藤優さんがコメントされているように、トルストイが書いた「戦争と平和」の日本版の壮大な「戦争と平和」であると言える。
戦争のこともだけれど、それ以上に平和についてつくづく考えさせられる良書でした。

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8つの物語

「8つの物語」フィリッパ・ピアス著 片岡しのぶ訳 あすなろ書房
英国のファンタジー児童書の名手、フィリッパ・ピアスの物語は、本当に心に響きます。大好きです。
と言いながら、この前紹介した「黄色いボール」は検索してみると2008年7月のことで、5年も前のことでした。
今回紹介する「8つの物語」は、「ロープ」「ナツメグ」「夏の朝」「まつぼっくり」「スポット」「チェンバレン夫人の里帰り」「巣守りたまご」「目をつぶって」の8編の短編集です。(副題は思い出の子どもたちです。)
どれも<無垢な子ども>と<常識的な大人>からなる普通の家庭で起こる、子どもにとっては重大な、大人にとってはささいな出来事なのですが、大人と子どもの心にある深い思いが会話からもあぶりだされ胸をうちます。
背景は田舎のおばあちゃんの所に都会から遊びに来る子どもと、田舎の子どもとの付き合い、微妙な食い違い、それに気付かない善良な大人からなる物語が多く、その環境が私自身のそれに似通っているので、すごく共感を覚えるのです。
物語に出てくる少年少女から、私の子ども時代の夏の山の家で過ごした体験、物語に出てくるおばあさんからは、今の私が孫に話す言葉。
8つの物語全部を紹介したいのですが、まあ、読んでくださいよ。楽しくなること請合います。
ちなみにこの本はアマゾンから中古1円送料250円で買いました。

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卒業

[卒業] 重松清 著 新潮文庫
「まゆみのマーチ」「あおげば尊し」[卒業]「追伸」という4編の小説からなっています。
 重松氏が巻末のあとがきで次のように書いておられます。少し長いですが書き写します。
連作に取り掛かるにあたって、書き手として目論んでいたことは2つあった。
一つは、「卒業」という言葉から多くの人が想像するとおり、始まりを感じさせる終わりを描くこと。その始まりが、たとえば「出発」や「旅立ち」といったものにつながってくれればうれしいし、終わりにしても、できるならそこに「和解」のよろこびを溶かし込みたいと祈って、4編を書いた。
 もう一つは、こちらは1編が4百字詰原稿用紙120枚前後というボリュームからの要請でもあるのだが、リアルタイムで進む物語の中に、過去をどう織り込むかということ。思い出を持たない「卒業」は寂しい。たとえそれが苦い後悔ばかりだったとしても、4編の登場人物それぞれの「卒業」には、長い年月を生きてきた、その時の流れの厚みを持たせたかった。
作者の目論みは見事に私の胸に入り込みました。あとがきのこの文章は、4編を読み終わってから読んで、作者の意図をそのまま読み取ることが出来た自分が嬉しくもありました。
人は母から生まれ、父に会い、兄弟姉妹に会い、友人に会い、、、、、、、そんな生活の中で、愛し合い、誤解したり、恨んだり、許したりして生きていく。
中でも、最後の「追伸」では、むせび泣いてしまった。小説を読んでこんなに泣いてしまったのは珍しい。人との結びつきは「許し、許され」を繰りかえしながら誤解を解いては、新たに始まる絆を大切に生きていくんだなと思わされて<涙>でした。

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