蟻の街の微笑み

arinomati【蟻の街の微笑み】パウロ・グリン著 大和幸子編 聖母の騎士出版
(蟻の街で生きたマリア北原怜子)
著者のパウロ・グリンは1928年オーストラリア生まれのカトリック司祭です。1955年から21年間日本で司祭職を続け現在はシドニーで執筆活動と黙想指導に関わっておられます。これまでに著書「長崎の鐘」や「和解」などが多数翻訳されていますが、翻訳のお手伝いをされているのが聖心女子大学と小林聖心女学院卒業生のグループの皆さんです。原書および翻訳書から得られた収益は、貧しい人々、困難な生活を強いられている人々に贈られます。

この度、翻訳と編集に携われた大和幸子さんがいつもラリグランスクラブを応援してくださっていることから売上に協力するつもりで買いました。

蟻の街のこと、北原怜子さんのことやゼノ修道士、コルベ神父のことなどよく知っていた(知っていると思っていた)ので、記憶を辿る感じで読み始めたのですが、私の記憶など全く無きに等しかったことがわかり、己の無知と知ったかぶりの奢りに気付かされました。カトリック教皇ヨハネ23世が「歴史を知らない人は記憶を持たない人のようだ」とおっしゃったそうですが実感した次第です。
本棚ブログで紹介したキャパやゲルダの時代、第一次世界大戦でのポーランドの悲劇、ヒットラー独裁政権の問題、にほんでは関東大震災、日清戦争と第二次世界大戦、大空襲に原爆。それらのことが無意識に北原怜子のモチベーションに深く関わっていることを、ポウロ・グリン神父は巧みに知らせてくれます。そのことは「お嬢様から東京山谷(墨田公園)のスラム街に身を捧げた偉人の伝記」とは、決して一言で片付けられない深い洞察があり驚かされました。

最初、墨田公園に訪れた北原怜子に発せられた言葉
【そう、あなたのような金持ちの若い婦人や立派な服を着た修道女がやってきては、お小遣いのあまりを恵んで歩いている。これがキリスト教の慈善なのです。・・(中略)・・不要品を貧しい人々に与えて、自分の低俗な良心を満足させているのです。それで貧しい人々を助けてやったと自己満足しているのです。・・】
その言葉を深く受け止めた怜子は裕福な家から出て蟻の街に住み結核を発症しながらも、地域の人々と共に廃品回収という仕事を精力的に働き29歳の生涯を終えたのでした。
私がラリグランスクラブでネパール支援活動をする中で、上記の抜粋箇所は常に痛く心に響くことであり気を引き締められました。
ラリグランスクラブを応援してくださる方々にも是非読んでもらいたいと6冊も買っちゃいました。

購入申し込み 聖母の騎士社 Tel 095-824-2080  Fax 095-823-5340
       1620円(税含む) 送料:無料

(表紙のカバー写真は<日本の女性報道写真第一号>の笹本恒子さんによる写真です。)

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橋ものがたり

橋ものがたり
「橋ものがたり」 藤沢周平著  新潮文庫
藤沢周平の本は<ちょっと退屈>という先入観があって馴染みのある作家ではなかった。
ところが夫が橋梁の専門家だったので夫のために貸してくださったこの本を先に読み始めたところ、思いがけず面白くて、物語の清々しいトーンの心地よさにしびれてしまった。

様々な人が日毎行き交う江戸の橋を舞台に、10の短編集だが色々な人が演じる橋での出会いと別れ、市井の男女の喜怒哀楽の表情を瑞々しく描かれる世界にうっとりと引き込まれてしまった。

第一話「約束」の中での一部を書き写そう。
幸助は、萬年橋で5年前に遭うことを約束したお蝶をドキドキしながら待っている。約束の時間にはまだ間がある。幸助はこの5年で修業を終え独り立ち出来るようになった。お蝶は変わっただろうか、、、。
 ★ ★ ★
幸助は大川と小名木川が作っている 河岸の角に建つ、稲荷社の境内に入った。狭い境内に梅の老樹と、まだ丈の低い桜の木が2本あった。梅はもう葉をつけ、葉の間に小指の先のような実のふくらみを隠していたが、桜はまだ散り残った花びらを、点々と残している。境内にも、少しよどんだような、暖かい空気と日の光が溢れていた。
幸助は境内の端まで歩き、大川の川水がきらきらと日を弾いているのを眺め、その上を滑るように動いていく、舟の影を見送った。そこに石があったので腰をおろした。石は日に暖まっていて、腰をおろすと尻が暖かくなった。
 ★ ★ ★
どんどん約束の時間が過ぎていく。
  ★ ★ ★
幸助は、橋の欄干に頬杖をついて、川の水を眺めていた。水は絶え間なく音を立て、月の光を弾いている。日が沈むと、あたりは一度、とっぷりと闇に包まれたが、間もなく気味が悪いほど、赤く大きい月が空にのぼった。
  ★ ★ ★
さてさて幸助とお蝶の運命は、、、?気になる方は本を読んでください。期待を裏切らないです。

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正岡子規

正岡子規  ちくま日本文学 
俳句を趣味にしているので、近代俳句を提唱した俳人正岡子規についてずっと知りたく思っていたのですが、やっと本を手に入れることが出来ました。

時代が明治に移った時、伊予松山に生をうけ、幼少の頃より孟子に親しみ詩作を始め、中学になると文集や雑誌を作り16歳で上京し第一高等中学に合格し文学の道を歩み、18歳の頃に始めて俳句の世界を知ってはまり込んだという根っからの文学青年でありました。
坪内逍遥、夏目漱石や幸田露伴、高浜虚子、碧梧桐、伊藤左千夫らと親交を深め文学を論じあい、いきいきと生活していたのですが21歳の頃体調を崩し喀血しました。しかし25歳の時には日本新聞に就職する事ができ、28歳の時自ら日清戦争の従軍記者を希望し、戦地より送られた「従軍記事」が日本新聞社で連載されました。
2~3ヶ月して帰国途中に船の中で大喀血をし身体を壊し神戸に上陸し叔父、母、虚子、碧梧桐などに迎えられ闘病生活に入りました。

3年後、東京に移り母親と妹の看護を受けながら、床についたきりの身になったのですが、最初の頃は、庭に降り立ち「小園の記」や人力車で近所を回り「車上所見」などの執筆が出来ました。
35歳の頃にはとうとう床から起き上がることも出来なくなりましたが、多くの文人友人達に囲まれ論議を戦わせ精力的に文筆生活をおくりました。

中でも日本新聞に連載された「病床六尺」の日誌では、苦しい症状のことだけではなく、ウイットに富んだ日常の話、格調高い文学評論などが書かれています。

明治35年子規が35歳の時いよいよ病状が悪化し友人に見守られながら亡くなりました。
死の前日の9月18日高浜虚子を枕元に呼び、
「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
「おととひのへちまの水も取らざりき」
を詠んだのが絶筆となりました。

俳句を交えながら文語体で書かれているのに読みやすく、明治時代の江戸下町の雰囲気が伝わって何か懐かしい思いにも浸されて、今後時あるごとに紐解きたい本として、書棚の見える場所に収めました。

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ゲルダ

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ゲルダ【キャパが愛した女性写真家の生涯】  イルメ・シャーバー著 高田ゆみ子翻訳
この前、沢木耕太郎のノンフィクション「キャパの十字架」を紹介しました。
戦争写真ジャーナリストのキャパを一躍有名にさせた「崩れ落ちる兵士」の1枚の写真が、果たしてキャパが撮った写真なのか?彼の助手を務めたゲルダ・タローのものではないかというドキュメントでした。
今回その謎に包まれたゲルダの生涯を辿った本が、去年の秋出版されたのですぐに買って読んだ。
この時代に女性として自立し胸を張って生き抜いたゲルダの短い生涯に深く感銘を受けた。
沢木耕太郎も本の解説で「私はゲルダという女性の像が明確になってきたことに、興奮を覚えた」と絶賛している。
ゲルダは1910年にポーランド国籍を持つユダヤ人として生まれた。7歳の時第一次世界大戦が終りオーストリア、ハンガリー、ポーランド、ドイツの秩序は乱れるなか、ゲルダはスイスの学校に進学しそのあとドイツの家族の元に帰って進学するが、20歳を迎える頃からヒットラーが政治の表舞台に登場し始め、ユダヤ系の人々は出自を隠した生活をしなければならなくなり、ナチスへの抵抗運動も起こり、ゲルダは解放運動に関わりながらフランスに亡命する。
危険を感じた裕福層や知識人のユダヤ人の多くは、アメリカやフランス、スペインなどに亡命しはじめていた時代だった。
1934年フランスに逃れたゲルダは ポーランドから逃れてきたキャパとパリで知り合う。ゲルダは23歳キャパは20歳だった。  
出自を隠さねばならなかったユダヤ人は生きるために仕事を求めなくてはならず、二人は戦場写真ジャーナリストの道を選び、スペインで起こった内戦の戦地に赴く。
一言で戦場ジャーナリストと言っても、そのモチベーションは人それぞれ違ったものがあるだろう。
ゲルダは最初はキャパの付き人のような立場でスペインに渡り、キャパと力を合わせて報道写真を撮影するのだが、ゲルダもカメラマンとしての才覚が現わす。しかし「崩れ落ちる兵士」の写真でキャパが一躍世間に認められるようになり、その頃の戦争の写真はゲルダの写真も紛れて、キャバの名前で発表されることが多かった。
しかし、ゲルダの戦争前線でのカメラが捉える映像は女性としての独特な感覚がありジャーナリストとしての評価もだんだん上がり戦地では勇敢でその上超美人のゲルダは多くの兵士に愛されていた。ところが1937年7月暴走する政府軍の戦車に轢かれて命を失う。27歳だった。パートナーのキャパは失意の中、その後も戦争ジャーナリストとして仕事を続けるが、第1次インドシナ戦争下のヴェトナムで地雷を踏んで命を落とした。40歳と7ヶ月だった。

先日、現在の日本人戦場ジャーナリストたちのことをNHKテレビや朝日新聞で取り上げられていたのを見て感じたが、現在の日本人の戦場ジャーナリストたちのモチベーションは85年の隔たりもありゲルダたちと少し違うことがわかった。
両者とも恐ろしい戦場の状況を世界の人々に知らせたいという根本的な気持ちは同じだけれど。
キャパとゲルダはユダヤ人でゲルダは両親姉弟の全員がナチに殺されている。独裁者がいかに罪なき人々を殺害し国を滅ぼすかを身にしみて感じその惨状を世界の人々に知らせたいという思いは命をかけるほど強かった。
今の日本人にとっては他国での戦場である。イラクやシリアでは、戦争、難民問題、独裁政治はゲルダたちの時代と何も変わっていない。日本では幸いにも戦場になっていないし、茶の間から他国の紛争を眺めて暮らせるのに、傍観者になることは出来ないと戦地に赴き、戦争に巻き込まれて苦しむ人々、酷い戦争の様子を世界に知らせようと立ち上がった人たちが日本の戦場ジャーナリストではないか。
記憶にあたらしいのは、去年2015年シリアのISの犠牲になった後藤健二さん、女性では2012年同じくシリアで取材中に政府軍に銃撃され亡くなった山本美香さんである。
他国の戦争問題を地球全体の問題として戦争の愚かさを世界に知らせようと命を捧げて頑張っている日本の戦場ジャーナリスト達に心より敬意を評したい。
戦争は自分の問題としても受け止めなければいけないと思ったことであった。

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キャパの十字架

【キャパの十字架】 沢木耕太郎著 文春文庫
kuzureotiru戦争のフォトジャーナリストのロバートキャパを、一躍有名にさせたスペイン動乱における「崩れ落ちる兵士」の写真が、本当に彼が撮った写真なのかを探求するドキュメントストーリーである。

「崩れ落ちる兵士」は1936年に勃発したスペイン内戦のさなかに撮られた一枚である。
スペイン内戦はこの本の説明によると、左翼並びに正式な選挙で選ばれた人民戦線政府に対し、フランシスコ・フランコ将軍ひきいるところのファシストと王党派とローマ・カトリック教徒の連合した右翼が戦いを挑んだものということである。結果はフランコ側の勝利に終わったがその後のフランコ将軍による虐殺えげつない独裁で、敵味方双方に壮絶な犠牲者を生み出し世に残る悲惨な戦争になった。内戦について詳しい経緯も説明されているが私の頭では掴み取れないややこしさである。
恥ずかしながら私の知識は人並み以下のもので、スペイン動乱についての知識といえば映画ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」とピカソの「ゲルニカ」とキャパの「崩れ落ちる兵士」のみだった。

写真は私の趣味のうちの一つで、戦地における報道写真に関心があったからキャパのことを知っていただけで、敵の砲弾を受けて倒れるところを捉えた写真を見てすごいなと単純に思っていた。
この写真は当時いち早くアメリカの週刊誌ライフに掲載されて戦争の悲惨さを世界に広めたという。
しかしその後その写真の真贋について色々の意見がなされ、なにかと話題になっていたそうだ。
沢木耕太郎氏も常々同じ疑問を持っていたことでそれを確かめようと行動にうつしたのである。
実際のその現場に直接足を運び、キャパの足跡を辿り、関係者を訪ねて世界を駆け巡り書かれたドキュメントである。20年以上もかけて調べた結果は「崩れ落ちる兵士」はキャパのヤラセ写真だったということを突き詰めたのである。

しかしまだ無名だったキャパにしても、あの写真がそんなに有名になるとは予測出来ず同情の余地がある。写真が勝手に動き出し、キャパが兵士に頼んだヤラセだったとか、写真見習いの恋人ゲルダが写したとも弁明できなくなり、沈黙を守り通すことになってしまい、重い十字架を一生背負うことになったようだ。
ゲルダはその1年後戦車に巻き込まれて死に、キャパはその後戦争フォトジャーナリストとして約18年間活躍した後インドシナで地雷を踏んで死ぬことになり真相を語られることはなかった。

一枚の写真からは、その場所その時間カメラの位置被写体の状態など確定できる。
私はホームページでネパールで撮った写真を掲載しているが、時々同伴者のモティさんが撮った写真を撮影者の名前を忘れて載せることがあったり撮影場所や村の名前もうろ覚えで書くこともあった。
今後何か事件が起こった時そのようなあいまいな記述から問題を引き起こすこともありうるかもしれない。
これからはもっと真剣に気をつけないといけないと思い知らされたことであった。

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みんな彗星を見ていた

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「みんな彗星を見ていた」 私的キリシタン探訪記 星野博美著

2008年7月3日の本欄で、4少年の天正遣欧使節「クワトロラガツイ」若桑みどり著を紹介し、何人もの友人も読んでくださり、感動を熱っぽく語り合ったことがある。

今日紹介したい「みんな彗星を見ていた」は、星野博美さんが書かれた、同じく400年前の日本で起こった数万人の殉教者をめぐる時代の真相を求める探求の旅の本である。

背景、登場人物もクワトロラガッツイと同じだが、キリシタン迫害史についての二人の時代を探求する視点や文体も違うので大変興味深く夢中になって読んだ。
 
幕府のキリシタン迫害、殉教についての日本での資料が極端に少なく、日本に布教に来ていた外国人神父(パードレ)の本部への手紙や報告書を掘り下げ参考にされている。

1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しキリスト教伝来の歴史が始まり、4少年はイエズス会所属のため「クアトロラガッツイ」はイエズス会パードレによる資料からの視点に重きを置かれているようだが、「みんな彗星をみていた」の方は、別のカトリック修道会の宣教師からの資料からの視点も多く、修道会同士の軋轢や事情も描かれて、「真の史実は神のみが知る」というか、自分が勉強した歴史書から史実を軽々しく信じこむというのは恥ずかしいなと思ったことでした。

キリシタンに関心ある方にとっては必読の本です。是非読んでください。

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優しいおとな

優しいおとな
「優しいおとな」 桐野夏生著 中央公論社
今日本では子どもの貧困が話題になっている。6人に一人が貧困におちいっているということである。
こども虐待、親の子育て放棄、親の蒸発。一人ぼっちになったこどもには児童養護施設という暖かい環境が用意され保護されるというのは、甘い考えのようだ。
赤ん坊で施設に預けられた子どもは、もちろん自分の名前も両親のことも全く知らずに育つわけで、子どもの情緒は安定しないのは当然かもしれない。
この物語は、家族をもたず、愛を信じることを知らないで育った施設育ち少年イオンの孤独な魂の道程。想像を絶するいきざまを追った本である。
施設という檻から自由を求めて脱出して生きることを決めた14歳のイオン。同じような境遇の少年たちと共に、公園や地下道を住処にしているホームレスの世界を渡り歩く。
おとなには、優しいおとなと、優しくないおとなと、どちらでもないおとなの3種類しかないとイオンは言う。
優しいおとなは滅多にいない。優しくない大人からはすぐ逃げろ。一番僕達を苦しめるのは、どっちちかずのやつらだ。
イオンにかまう、モガミというNGOの優しいおとな?どっちつかずのおとな?も重要な登場人物である。

この本を読んで衝撃を受けた。これまで途上国でストリートチルドレンの姿を何度も見かけたが、どこでどんな生活をしているのだろうと、人事のように同情していただけかと気付かされた。
この日本では私は見かけたことがないのだけれど、家族や住む家もなく食べ物も毎日探しまわりながら生活をする子どもたちが存在するのだ。子ども達だけではなく、同じく大人もいる。
政府が用意してくれる施設より自由な公園を選ぶホームレスが多く存在するというのは、どういうことなんだろう。
社会からはみでた人々に対する、人間としての尊厳をどこまで考えているのかが問題なのかもしれない。

日本の将来を考えさせられる物語であった。

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辺境・近境

「辺境・近境 」 村上春樹著 新潮文庫
久しぶりの村上春樹さん。
1990年から1997年の旅の記録。7篇。
1.イースト・ハンプトン (1991年)作家たちの静かな聖地 
  ニューヨークから車で2時間で行ける超セレブな作家やお金持ちの別荘地。
  春樹さんの感想は「住みたくないね(住めないけれど)」
2.無人島 からす島の秘密 (1990年)
  瀬戸内海に浮かぶ個人所有の6千坪の小島。水なし電気なし。テント生活3泊のロマンを求めてのつもりだったけれど、予想外の災難に会い1泊で逃げ出す。
  春樹さんの感想は、「無人島というのはまことに奥深く興味深いところであった。」
3.メキシコ大旅行(1992年)1ヶ月をかけての長旅
  私はメキシコには、マヤ遺跡を訪ねる旅をしただけだけれど、ペルーの僻地には何度か行っているので、状況を想像することが出来楽しく読んだ。
  春樹さんの感想は「メキシコはとても魅力のある土地だった。またいつか訪ねてみたい。」
4.讃岐・超ディープうどん紀行
   讃岐うどんは好きだけれど現場で食べたことなかったので、やっぱりホンマもんは現場で食べないとあかんなあと思わされた。
5.ノモンハンの鉄の墓場。
  春樹さんが小学校4年生の頃ノモンハン戦争の写真をみたことが強く印象に残り、ノモンハン戦争のことが書かれた本には必ず目を通していたそうです。「ねじまき鳥クロニクル】第2部でノモンハンと満州のことを書いたら、雑誌「マルコポーロ」から実際にそこにいってみませんかという話が来てすぐに引き受けた。ということでの長紀行文です。
  私は春樹さんの「ねじまき鳥クロニクル」を前に読んだが、ノモンハンのことが載っていたところがよく理解できなかった。ところがこの紀行文で自分の無知を恥じた。もう一度読もうと思う。
  今年は戦後70年ということで、硫黄島のことや満蒙開拓団のことサイパン玉砕のことフィリピンのこと中国での日本軍の残虐行為、沖縄のことなど特集番組が多く組まれているのを見て、つくづく自分自身日本が仕向けた戦争の真相を学習してこなかったこと真相を教えられてこなかったことを悔しくおもっている。
  戦争で生き残った方が口々におっしゃるのが「国策に逆らうことは絶対に出来なかった。」「当時は国策だからお国のためになるのならと敵軍を殺すことを自分に許していたけれど、殺したことの苦しみは70年間忘れたことはなかった」「この先、国が戦争に加担すると決めたならば、国民はそれに従い殺すか殺される世界に巻き込まれることになる」「戦争はどんな理由があろうともしてはいけない」
  私達は過去の戦争の悲劇を決して忘れてはならず、でも私が出来ることは戦争をしないという政治家に選挙の票を入れることだけである。日本の政治はどうなるんだろうか。
  春樹さんの感想は、「僕はノモンハン戦争のことを、決して忘れないだろう。忘れないことそれ以外に僕の出来ることはおそらくなにもないのだから。」
6,アメリカ大陸を横断しよう
7,神戸まで歩く
  【1,995年の阪神淡路大震災から2年目。あの巨大な暴力が僕の生まれ育った町から何を奪い何を残していったのかを見届けたかった】西宮から三宮までを歩く紀行文。
  春樹さんの感想。そこには海も山もあった。しかし今ここにあるのは別の海と山の話だ。
  春樹さんが辿った道は私の日常生活の場なので店までもわかり一緒に歩いている気持ちになれて楽しんだ。

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京都ぎらい

「京都ぎらい」  井上章一 著  朝日新書

「嵯峨育ち?ええか君、嵯峨は京都とちがうんやで、、、」と京都の町家研究で有名な杉本秀太郎氏や国立民族学博物館長だった梅棹忠夫氏から軽くあしらわれた井上氏が、京都人のえらそうな腹のうちを“暴露” した本というのに題名にも興味をそそられ購入した。

京都市の範囲は広い。しかし北は北大路通、東は東山通、南は7条通、西は西大路通の4大路の内側地域を洛中といい、それ以外を洛外と言うらしい。らしいというぐらいだから法律で決められているわけではない。けれど京都住人はみなその区別は理解出来るのではないだろうか。

京都市は北区、右京区、上京区、左京区、下京区、山科区、西京区、南区、東山区、伏見区で成り立つ。そのうち洛中は上京区、左京区、東山区、中京区、下京区に限られるかな。

著者は右京区嵯峨の育ちで現在は結婚されて京都府宇治市におすまいである。洛中育ちの人々から「井上は嵯峨育ちだったのか、京都人ではなかったんか、、、」と言われ続けてきて、いやな目にあいつづけ京都はいやなところだなと悔しい思いが頭に染みこまされている。という。

現代は京都でも、同和問題、民族的な問題で、差別的な言葉は許されていないし、京都人としての自意識もあるから心で思っていても決してあからさまに「田舎者やなあ」とは言わない。「あんたとこどこえ~?嵯峨なん?この前大雨で桂川溢れて大事やったんちゃう?家だいじょうぶやったん?」という具合に同情心を表しながら言う。それを聞く井上氏はコツンと来るらしい。

私は洛中人として育ったので、悪気もなく洛外人に同じような言葉をしょっちゅうかけていたことに思い当たる。「嵯峨から来たん?どうやって?嵐電?へ~え、遠くて大変やのに、ようきたなあ!」とか、「宇治て京都やったんか?滋賀とおもてた」とか教養の無さを恥ずかしげもなく言ってしまったり、、。

嵯峨育ち宇治住人の井上氏はムッと気色ばむ。しかし井上氏自身もそのような差別意識を持つように育ってしまって、嵯峨の隣の亀岡の住人を田舎者と見てしまう情けない差別意識があることに気付いておられる。

井上氏は京大工学部建築学科で学ばれたのにかかわらず、今や国際日本文化研究センター教授として日本の歴史文化について研究されていて、今回、京都人の持ついやらしさ誤った優越感を覆そうとこの本を出版されたみたいです。彼自身、世間からは京都人と認められている居心地の悪さを感じ続けながら、躍起になって洛外の生まれ育った嵯峨という土地がいかに歴史上重要な地であったかを嵯峨天皇や亀岡天皇のことを調べたり、現在もてはやされている京都の寺や花柳街の華やぎの裏話を暴露した本です。

私、洛中京都人として、井上氏の微妙な気持ちに気付かされて、実に興味深く読ませてもらいました。

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ぼくの命は言葉とともにある

「ぼくの命は言葉とともにある」福島智 著

6月9日に「ゆびさきの宇宙」を紹介しましたが、今回は福島智さん自身最新の著書です。

福島さんは9歳で失明18歳で聴力も失った盲ろうの方で、現在は東京大学先端科学技術研究センターの教授をされています。

盲ろうの方の世界は、見えない聞こえないという暗闇で静寂そのものの世界です。それは何光年も地球から離れた宇宙の中に一人で漂う世界と彼は云います。

「指先の宇宙で紡ぎだされた言葉で、本書を綴りました。たとえ僅かでも、その言葉がみなさんにとって生きるうえでの力になれば幸いです。」とあとがきで書かれています。

本当に感動しました。たしかに生きる上での力となりました。

珠玉の言葉で綴られていますが幾つか紹介します。
*絶望と苦悩は同じではありません。苦悩は絶望とは違って、苦悩には意味があります。これは自分の将来を光らせるために必要なものなんだ。
*盲ろうとなった自分に生きる意味ってあるのだろうか。このしんどさには意味があるはずで、自己崩壊から逃れるために「意味」を見出すことが救いになり希望になる。
*命って?吉野弘の詩から
 「生命は/ 自分自身だけでは完結できないように/つくられているらしい/花も/ めしべとおしべが揃っているだけでは/ 不十分で/ 虫や風がおとずれて/ めしべとおしべの仲立ちをする、、、、
*生きるためには めしべとおしべに仲立ちが必要なように、コミュニケーションがなくてはならない。人間(福島智)にとって、それは言葉でつながるコミュニケーション。

図書館で借りたのだけれど買って手元に置かなくちゃと思いました。

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