正岡子規 ちくま日本文学
俳句を趣味にしているので、近代俳句を提唱した俳人正岡子規についてずっと知りたく思っていたのですが、やっと本を手に入れることが出来ました。
時代が明治に移った時、伊予松山に生をうけ、幼少の頃より孟子に親しみ詩作を始め、中学になると文集や雑誌を作り16歳で上京し第一高等中学に合格し文学の道を歩み、18歳の頃に始めて俳句の世界を知ってはまり込んだという根っからの文学青年でありました。
坪内逍遥、夏目漱石や幸田露伴、高浜虚子、碧梧桐、伊藤左千夫らと親交を深め文学を論じあい、いきいきと生活していたのですが21歳の頃体調を崩し喀血しました。しかし25歳の時には日本新聞に就職する事ができ、28歳の時自ら日清戦争の従軍記者を希望し、戦地より送られた「従軍記事」が日本新聞社で連載されました。
2~3ヶ月して帰国途中に船の中で大喀血をし身体を壊し神戸に上陸し叔父、母、虚子、碧梧桐などに迎えられ闘病生活に入りました。
3年後、東京に移り母親と妹の看護を受けながら、床についたきりの身になったのですが、最初の頃は、庭に降り立ち「小園の記」や人力車で近所を回り「車上所見」などの執筆が出来ました。
35歳の頃にはとうとう床から起き上がることも出来なくなりましたが、多くの文人友人達に囲まれ論議を戦わせ精力的に文筆生活をおくりました。
中でも日本新聞に連載された「病床六尺」の日誌では、苦しい症状のことだけではなく、ウイットに富んだ日常の話、格調高い文学評論などが書かれています。
明治35年子規が35歳の時いよいよ病状が悪化し友人に見守られながら亡くなりました。
死の前日の9月18日高浜虚子を枕元に呼び、
「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
「おととひのへちまの水も取らざりき」
を詠んだのが絶筆となりました。
俳句を交えながら文語体で書かれているのに読みやすく、明治時代の江戸下町の雰囲気が伝わって何か懐かしい思いにも浸されて、今後時あるごとに紐解きたい本として、書棚の見える場所に収めました。