レイクサイド

レイクサイド 東野圭吾著
中学お受験合宿で湖畔の別荘に集まった4組の家族。
その内の一組の夫を別荘に訪ねてきた愛人が、夫が出かけた間に妻の部屋で殺される。
妻が「私が殺したのよ」と犯行を告白する。夫はすぐ警察に届けなければと言うのだが、別棟にいた子供たちに知れると、お受験に差し障るし、公になると何かと家族に不都合が生じるので、あとの3組の夫婦が完全犯罪として隠しとおすことを提案する。
どのように事件を完璧に隠蔽するのかなかなかミステリーに富んでいる。
この小説の面白いのは、登場人物の内面の描写がなく、外面的な言葉や行動からだけ読者は推理することになる。
事件の結末を、紹介出来ないけれど、殺人事件とは関係がなかったはずの子供たちも絡み、なかなか面白いものであった。
演劇化されれば面白そうと思ったら、2005年に「レイクサイド マダ?ケース」という題で映画化されたそうです。でも解説によると本に描かれたようには映像化出来なかったらしいです。

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ぱリのおばあさんの物語

パリのおばあさんの物語  スージー・モルゲンステルヌ著 セルジュ・ブロック絵 岸恵子訳
友人が、「読んで、感想を聞かせて」と言って、この本を置いていった。
この歳になると、<生→老→病→死>に至る人間の一生について、友達仲間で、話し合うことが多くなってきた。
このパリのおばあさんの日常は、将来、私が想像する自分のおばあさんの姿そのままだから、友人が本を渡しながら、ニヤリと笑っていた訳がわかった。
・・・・・・・
   おばあさんは小さなアパルトマンに独り暮らしです。
   おじいさんに先立たれてひとりぼっち。
   子供はいるけど一人ぼっち。
   昔はずいぶんたくさん本を読んだのよ。
   でも もう駄目。眼がとても疲れるの
   縫い物にも刺繍にも精を出したものだわ。
   でも もう気力はありません。
   おばあさんは、薬を飲むのを忘れます。
   記憶が薄れるだけでなく、物忘れがひどいのです。
   だから、お誕生日だっておぼえてないの。
   でも、雪が降ったことは覚えてる、、。
・・・・・・・・・
おばあさんは、そんな生活を悲しんではいません。淡々と受け入れて楽しんでさえいます。悲惨なところは微塵もありません。
私もそんなようになる予感はあるけれど、そうあらまほしいと思うけれど、パリのおばあさんのようになり得ないだろう所が一ヶ所あります。
・・・・・・
   おばあさんは鏡をのぞきます。
   「なんて美しいの」とつぶやきます。
   顔はたくさんの歴史を物語っているのですもの。
   眼の周りには楽しく笑い興じたしわ。
   口の周りには歯をくいしばって悲しみに耐えた無数のしわ。
   しわ、しわ、しわ、いとおしいしわ。
・・・・・
ここまで老いを受け入れられればどんなに幸せかなと思うけれど、、、。
顔に表れるしわが、美しいと思えるしわになるには、精一杯生きて、悔いのない生活を営むことが必須条件だろうし、それが私にはまだまだ足りないなあと、顔に乳液を延ばしながら思わされたのでした。

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聖家族のランチ 

聖家族のランチ 林真理子著
怖い話だった。
「極悪で残酷なことが出来るのは、男より女である」ということを聞いたことがあるが、そうかもしれない。
主人公の佐伯ユリ子は、人より抜きん出た美人だったが、庶民の育ちにコンプレックスがあり、セレブに憧れる女であった。そのため背が低く顔も悪いがエリート銀行マンの男と結婚する。ヨーロッパの海外赴任も体験し1男1女に恵まれ良妻賢母に徹し、子供たちを東大に何人も進学するエリート校と、超お嬢様女子校に入学させ、優越感に溢れる生活をしている。そのうち海外での体験を活かし、料理を教えることを始め、料理家としても名をあげ始める。
ところが晴れやかに世界を広げはじめたユリ子に反して、夫の銀行はバブルがはじけて大変で、お坊ちゃんの息子は新興宗教にはまり、娘はありきたりの進学はつまらないと大学進学を拒否したために彼氏に捨てられる。
そんなことに全く気が付かないユリ子は、料理の本を出版してくれるスマートな編集長と不倫の間柄になる。
ある日その男が家を訪ねてきた時に、母親の不倫に気付いた息子は、カッとして男を包丁で刺し殺してしまう。
思いもかけない出来事に、この家族は仰天し、それぞれが自分と家族を守るために、このことはなかったことにしようと、殺人事件を闇に葬ることにする。
そこで決めたことは、、、?
殺人現場は、料理教室も開ける各種包丁も揃った広い台所なので、ひとまず大型冷凍庫に死体を隠すことにする。ところが手足が邪魔なので、肉きり包丁で切断することにする。
そして毎日少しずつ・・・食べることにしたのである。
ユリ子は料理人なので、香辛料を効かせた豪華な料理を毎日工夫して作る。家族そろって毎日食卓を囲む。
ああ。怖い!
ああ。気持ち悪?ぃ!
最後、どうしても頭部を料理することが出来ず、家族みんなで捨てにいく。
結末は読者の想像にまかせる終わり方で、私にとっては、当然後味悪く未消化で終る。
あまり紹介したくない本だけれど、気持ち悪さと女の怖さを知ってもらい、恐怖を分かち合いたいと思って本棚に収めました。

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田口ランディのコラム集

「もう消費すら快楽じゃない彼女へ」田口ランディ著 幻冬舎文庫
このコラム集は<?もう消費すら快楽じゃない彼女へ ?生きるためのジレンマ ?世界は2つある>という3つのジャンルに分けて、それぞれ8?10編からなるコラム集です。
ランディさんは、今のようにブログが大流行になるずっとずっと前から、ネットで私信を発信し、有名になった名コラムニストです。
とても文章が読みやすく、短い発信のなかにでも、とっても深い思いが潜んでいてとてもひきつけられます。
今回はそのなかで、<?世界は2つある>の中に収められた「夜明け」を紹介したいです。
著者には、生まれながら盲目の友人がいました。<>内は原文。
<・・彼は本当にプロの盲だったよ。彼の生活は完璧で、美しかった。何一つ欠損を感じさせなかった。その物腰も、話し方も、明晰でセンスのよい青年そのもので、その動きは計算されていて、隙がなく、生きていることの緊張感に溢れていた。・・>
ある日、偉い先生から見える可能性があるから手術を勧められる。周りの者はそれが良い事だと喜び、こぞって手術を薦め、彼は迷いながら決心し手術を受けて見えるようになる。
ところが彼にとって現実の見える世界は、予想に反して醜悪で苦痛でしかなかったという。
彼は<完璧な盲人だったのに、今では不完全な健常者になった。>のである。
彼は毎日、イライラしながら過ごしていたが、夜になると暗闇の中で、ホッとするのであった。
ある夜、一晩中、堤防に座って海の音を聞いていたら、暗闇の中から、世界が少しずつ光を帯びていくのがわかった。
彼は、はじめて見えなかった時のように、心に安らぎを感じ、「ああ、見えるということは、これか。これでいいんだ」と思い始める。
<夜明けは彼の人生の象徴だ。闇に光が差す。>
彼にとって手術したことが幸せだったのか不幸だったのか分からないけれど、夜明けの光のなかに希望を見つけるにちがいないと著者は信じている。
8月9日の、私の本棚で紹介した、「生きています、15歳」の、500グラムで産まれて、未熟児網膜症で盲目になった美由紀ちゃんの話で触れたように、盲目は欠陥ではない。個性なのだから、わざわざ個性をつぶして、目が見えるように無理にするのは、必ずしも最善の道とは限らない、ということを又思いだしました。

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生かされて

「生かされて」 イマキュレー・イリバギザ著 PHP出版 
1994年4月。ルワンダで起ったフツ族ツチ族という民族間の闘争が引き起こしたジェノサイド(大量殺戮)のことを、どれだけの人が知っているのでしょう。100日間で100万人が殺されたのです。それは私の記憶に新しい6000人が亡くなった阪神大震災の1年前という最近のことです。
この本はその壮絶な戦いから生還したイマキュレー・イリバギザさんの手記です。
地震や台風などの災害による犠牲者ではありません。人間による同じ人間に対する殺戮です。原爆のように一瞬で殺されるのでもありません。耳・鼻・手足・頭を大鉈で切られレイプされ殺されるのです。昨日まで友だちだった人、昨日まで信頼しあった兵士でもない普通の人が殺人者に早変わりするのです。
ツチ族のイマキュレーさんはフツ族に捕らわれて殺されて当然という状況の中で、その3ヶ月間、奇跡的に、小さなトイレに7人の女性が折り重なって匿われ、ぎりぎりのところで開放されて生き残ったのです。
彼女の両親兄弟は外国に留学していた兄一人を除き、顔見知りであった人々も交わるフツ族の人々に全員が惨い殺され方をします。
後日イマキュレーさんが現地を訪れた時、父を殺した首謀者がイマキュレーさんの前に引きずり出されました。彼はかって立派なフツ族の実業家で、イマキュレーさんの家族もよく知っていた人です。イマキュレーさんは悲しみで胸が潰れる思いにとらわれながら、ぼろぼろになってうずくまる殺人者の手に触れ、口に出た言葉は<<「許します」>>でした。
この本は“許し”の本です。
ブログ「私の本棚」で4月23日に取り上げた「白夜行」(親が理不尽な殺され方をした子供の復讐小説)の紹介文の中で私は「許し」という言葉に触れました。
「許し」というのは、戦いにおける最高の「切り札」だと私は思います。死んで生きるための切り札です。
死んだら終わりという無宗教者や無神論者にとっては「許し」は負けになるのかもしれません。
カトリック教徒の私にとってはインパクトのある感動の書でした。
私の信仰心の薄さを、しっかり自覚させられましたが。

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晩年

「晩年」 立松和平 著 人文書院
この本は、著者の周りをとりまく人達が迎えた彼岸への旅日記の短編集です。
8月16日孫達ゲストを送り出して、読書の時間をやっと取り戻し、私が紐解いた個所が題名<盂蘭盆>でした。
キリスト教者の私は、この歳になるまで故郷京都の五山の送り火を、意味も深く考えぬまま綺麗だなあと見ていたのでしたが、なんてもったいないことをしていたのかと思いました。
仏教の教えでは、人は死ぬと、この世である此岸(しがん)からあの世である彼岸(ひがん)に旅をする。といいます。
彼岸は阿弥陀如来の極楽浄土で十万億土の彼方にあるらしい。彼岸に旅立つ準備期間が49日であるらしい。
8月13日に、普段は彼岸に住んでいる亡くなった縁者が、極楽浄土から娑婆世界までの十万億の仏国土を超えて、この世にやってくる。
まだこの世にいる人はお墓に行って霊を迎え家の仏壇に導く。霊は3泊3日迎えてくれる家に留まり,又帰っていく。のだそうです。
人は死んでも極楽はなんせ遠いものだから、すっと行けるのでなくこの世で悪いことをした人は道中途中で往生出来ず苦しむ。その悪を払うのは本人、否、本霊では出来ず、この世にいる人が救ってあげなければならない。のだそうです。
先祖の霊が無事に極楽浄土に行き着いているかどうか?
仏教の本ではないので、そこまでは詳しく書かれていない。
そういえば、カトリックでも死ぬとまっすぐ天国に行くのではなく煉獄で試練を受けなければならないとも教えられていますわ。
<<・・・さんは死んだ。・・・さんは認知症になったと、私が顔を知っている近所の人について母は語っていた。普段母は一人暮らしをしているためか、おしゃべりをすると止まらない。私は黙って聞き、時々相槌を打つ。一人ずつ順番に、確実に欠けていくのがわかる。家を出ると、遠くにいってしまって帰れなくなる奥さんの話を、母はしている。世間ではその人を認知症による徘徊老人というのだが、今まさに十万億土の浄土に向かおうとしている希望に満ちた人のようにさえ思えた。>> (本文より)
著者はこの本で、<<時の流れとともに、人々は列をなして冥土へと向かう。もちろんその列に私もいつかは加わるのであるが、この世に在る間は、一人一人を惜別の念とともにていねいに見送りたいと願い、この短編集を書き始めた。>>と言っている。
この本をよんで、仏壇も持たない私は、これまでに見送った人々のことをしみじみ懐かしく思い出したのですが、送り出したあの人たちは天国から私を見守ってくれていると安心して信じていたけれど、ひょっとしてまだ煉獄にいるかもしれないと慌てて祈ったことでした。
お盆を迎えていたので、この項目を選びましたが、あとの28編は、死んでいった父親や友人の生涯を愛情深く丁寧に書かれた感動の書でした。

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生きています,15歳。

生きています,15歳。 井上美由紀 著 POPLAR
井上美由紀さんは、頭は卵ぐらい指はつまよう枝位の手のひらにすっぽり納まるちっちゃな赤ちゃんで生まれました。500gという超未熟児で、未熟児網膜症に罹り全盲となりました。
全盲というハンディを背負い母親と二人三脚で15年。その生き様を「母の涙」という題で弁論大会で話し、全国盲学校弁論大会で優勝するまでに成長した道のりの手記です。
美由紀さんのハンディは全盲というだけではありません。美由紀さんがお母さんのお腹にいる時結婚の約束をしていた父親が突然交通事故死をし、そのショックで母親は早産して、彼女は未婚の母に育てられたのです。
父親の両親からも母親の親からも断絶され完全に二人ボッチの出発でした。
目が見える人ばかりで形成されているこの世界で、全盲の子が生きていかねばならないのです。
母親はこの現実を「尊い娘の命を授かった」という喜びと感謝で受け止め、娘がこの世界で自立していけるように、子供自らの努力と、距離をおいた手助けだけで、自立を身に付けさせるための子育てに徹するのでした。
傍の人からみると,又娘にとっても「鬼母か、、。」と思われながら娘を新しい挑戦に挑ませ、目的を一つ一つ達成させて娘に「自分でゲット出来た喜び」を味あわせてあげながら育てるのです。
例えば、自転車に乗れるようになるための特訓。立木や看板にぶつかったりして何度も何度も転んで血だらけになりながら自転車を起こしては頑張る娘に対し、母親はベンチに座って、「はやく起きなさい。ハンドルをちゃんと持って!」と叫ぶだけなのです。娘は「なんちゅう親か。それでも母親か」と悪態をつきながら30回ぐらい試すうち、<ふっとスイスイ風を切って走っている自分>に気がつくのです。
そして親子で泣きながら抱き合い、母は「美由紀。よく頑張ったね。なんでも根性やろ。やろうと思ったらできるやろ。」と誉めます。
一つづつ自分の力で、出来ないことが出来るようになったことの喜びを身に付けさせてあげることを繰り返します。
美由紀さんの逞しさには感動するばかりですが、どちらかと言うと母親の確固とした子育てにたいする考え、と情熱が娘をここにまで育てることが出来たんだろうと思います。
全盲ということは一つの特徴・個性であり、健常者と全く変わらない<一人の普通の人間>であることを母親はしっかり認識し、全盲であるために不自由なことは工夫しながらクリアー出来る方法を自分で見つけ出せるようにする手助けをすることに徹っせられた姿には感動しました。
私たちラリグランスクラブでサポートしているネパールの全盲のマドゥさん、ルパック君、シャルミナさんと付き合っていくときに忘れてはならないことをたくさん気付かせてくれた本でした。

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密やかな結晶

密やかな結晶  小川洋子著 講談社文庫
舞台は、例えばイギリスの郊外の森林や田園や古い街並みをしっとり感じさせるような、ある架空の島での出来事です。
そこの島では、秘密警察によって、ある日突然強制的に物の存在が失われ、人々の頭からもその記憶が失われて人々の頭の中はその部分が空白になっていく。
島からなくなっていくものは小鳥であったりリボンであったりバラの花であったり小さいけれど掛け替えのないものである。
失われるものは、その日の朝突然、秘密警察から島の住人に告げられ、人々はそれを家から持ち出してきて川に捨てる。秘密警察はそのものを隠している可能性のある家にどかどか土足で踏み込み家中からそれに関わるものを押収しゴミ袋にいれ持ち去る。
剥奪された人々は見る見るうちに捨てられたものの記憶を失ってしまう。
中には記憶を失わない人もいてその場合は記憶狩りの秘密警察に捕らわれどこかに連行されてしまう。
島では物がなくなる速度と作り出される速度の差が広がり島からは活気が失われてゆく。
さて結末は、、、、、?
著者は中学生の時、ゲシュタポに連行され殺されたアンネ・フランクの日記を読んで感銘を受け小説家になるきっかけになったと、どこかで読んだことがあります。
地球に生きる(存在する)ものが私欲にかられた権力でもって強制的に抹殺される恐ろしさを、著者は鎮めた口調でファンタジックに記述する。
しみじみ考えさせられる良書でした。

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黄いろいボール

「こわがっているのはだれ?」 フィリッパ・ピアス著 高杉一郎訳
またピアスです。
「黄いろいボール」は「こわがっているのはだれ?」 の短編集の中の一つです。
この短編集は幽霊が主題になっています。
「黄色いボール」に出てくるのは犬の幽霊です。
コンとリジ-という幼い姉弟が、いつも遊んでいるカエデの古木の洞から、ある日偶然に黄色いボールを見つけます。そのボールで遊んでいると、何かサ?と目の前を横切る影に二人は気付きます。それは犬の幽霊でした。
きっとその犬は、二人が住むずっと前に、いつもその黄色いボールを追いかけて遊んでいたのでしょう。
不思議で怖いお話だけれど、その世界には死んでも生き続ける魂が浮遊し、大ヒットした「千の風にのって」の歌を思い出させる、何かしみじみ考えさせられた短編集でした。
訳者のあとがきによると、ピアスは「私は、スーパーナチュラルの話を書くのが好きです。それは読む人の、恐怖心を書き立てるような話と、スーパーナチュラルの手法を使って、現実の奥の深みにある実体に触れていく話があります。私はスーパーナチュラルの手法を使わない限り、物語で人間のかかわりあいを深く探ることは出来ないと幾たびとなく考えてきました。」と話しておられたそうです。
今私は木々に囲まれた蓼科の古びた山荘で生活しているのですが、今日もテラスで本を読んでいると、苔むした岩の後ろから4年前に死んだ愛犬が顔を出してじっとこちらを見ているような気がして、ふ?と懐かしさがこみ上げてきました。それで夏休みにやってくる小さな孫達のために下草を刈り、木登りやハンモックで楽しめるように山荘の周りを整備したのでした。朽ち果てそうになっている犬小屋はそのままにして。

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ピアス短編集

ピアス短編集:まよなかのパーティ  フィリッパ・ピアス著 猪熊葉子訳
元小学校教諭Yさんが体調を崩してしまい、何年ぶりかで読んだフィリッパ・ピアスの本で癒されたと聞いたので早速図書館で「ピアス短編集」を見つけて読んだ。
フィリッパ・ピアスは児童書作家として有名だそうだけれど私は知らなかった。1985年に出版された本だけれど今作者が存命なのかどうかも知らない。
いずれも作者が育ったイギリスのケンブリッジにほどちかいグレート・シェルフォードという所の田園での生活が舞台で、日々冒険の中から成長していく子供を中心に分別ある大人を脇役にして展開される。
8つの短編が集められているが私は中でも「川のおくりもの」が面白かった。
10歳ぐらいの男の子ダンとロンドンから遊びにきた7歳ぐらいのローリーという従兄弟の話である。
生物好きのローリーが来るといつも遊んであげる小川で今回も二人で遊んでいると、珍しいイシガイをダンが見つけた。珍しい生き物を見つけた時の感動や、所有権にまつわる可愛らしい取引、年長者ダンの気持ち、弟分の気持ちなどがごく普通に淡々とえがかれている。
ローリーはいつも、川で見つけた川えびなどをジャムのビンに入れてロンドンに持って帰り、水槽で飼っている。ダンは見つけたイシガイをローリーにあげるとは言ったものの惜しくなっている。
そのへんの子供の心理がとっても可愛らしくかかれていて感動しました。
この本は児童書の分野だけれど子育てに関わる大人が読むほうが面白いのではないかな。
10歳の孫達とその親に贈って反応を見てみよう。
この舞台になっているグレート・シェルフォードは現在も豊かな田園が広がっているのだろうか?
昔の子供たちが自然の中から学び成長していったように、今の子供たちが豊かに育っていくための舞台はどこにあるのかしら?

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