富士日記 上・中・下

「富士日記」上・中・下 武田百合子 著
2020年11月18日の朝日新聞朝刊「時代の栞」に、<富士日記>が取り上げられたので驚いた。ちょうど読み終えたばかりだったので。
昭和の著名作家、武田泰淳の妻百合子の日記である。泰淳が亡くなった後に出版された。
1966年(昭和39年)7月から昭和51年9月17日までの富士山麓に建てた山荘での生活を13年間にわたって記録した日記である。
泰淳(当時39歳)より13歳年下の百合子(26歳)は3回にわたる堕胎のあと4回目で目出度く(?)女児出産結婚した。文壇で売れっ子になり始めていた泰淳と銀座のカフェの従業員の百合子であった。
百合子はこの人のために身も心も捧げ尽くしたいと願ったと思われる。そして愛情をもって明るく生き抜いた日記である。
執筆で忙しくなっていた泰淳は仕事場として、又都会からの喧騒を避け富士山麓に山別荘を建てることになり、そのための騒動、車が必要で百合子が運転免許を取り、百合子の運転で東京と山荘を行ったり来たりの山荘での生活が記録されている。
日記を書くことに百合子は最初気が乗らなかったが、夫泰淳が代わりばんこで書くことぐらい出来るだろうということから始まったようである。これも泰淳の命令には一切逆らわない。おそらく泰淳は百合子の才能に気づいていたと考えられる。泰淳の記録も合間に少し書かれているけれど、百合子の記述のほうが格段に読みやすく楽しい。
その日記は山荘での生活の1日の様子が、事細かく食料の買い出し、食材の一つ一つの値段が油揚げ2枚40円という具合に記録され、朝、昼、晩の食事メニューが書かれてある。
例えば引用に短い記録を紹介しよう。
・・・・
昭和40年8月11日(水)曇り 明け方急に涼しくなって、寝ていて喉が痛くなる。1日中、低い小さな声で話す。お芝居をしているよう。午前11時、河口湖局に原稿を出しに下りる。
ビール2打、ハシゴ1900円、のこぎり2丁600円 トマト、ひき肉、きゅうり、菓子などを買う。
朝・ご飯、茄子中華風炒め 大根おろし、しらす 昼・ふかしぱん、紅茶 夜・コロッケ(鮭缶を入れたら主人まずがる)ご飯、トマト。
・・・・
だいたいこのような内容の生活記録が上・中・下3巻まで延々と続く。
食事のメニューで変わらないのは大根やコンビーフなどの缶詰。大根おろしは毎日です。ビールは必ず。食事の内容が乏しい。泰淳と百合子2人共60代で亡くなったことも影響しているのかなと思った。泰淳が病気になってからごはんが麦飯に変わったが。
それと百合子の飲酒運転。急に泰潤が今から東京へ帰るというと、その前にお酒を飲んでいたかはお構いなし、睡眠時間短くて居眠り運転もしょっちゅう。もう泰淳の望みはすべて受け入れる。
合間には原稿出しに行くはもちろん泰淳の原稿で、電話も引かず出版社や新聞社からの連絡は電報でのやり取りや、百合子が東京まで車を飛ばして持参する。晩年は、清書や口述もこなし出版社に届ける。Faxなどない時代だった。
お隣に別荘を建てた泰淳の親友の大岡昇平夫妻との交流は素晴らしいもので、山荘生活ではなくてはならない事でした。別荘の建物などを取り仕切る地元の植木石工職人たちとの温かい交流、など夫泰淳の望みを全部生き生きとして叶える百合子。
百合子の楽しみは庭の植木草花、おとずれるリスやうさぎや小鳥たちあらゆる生き物とのふれあいである。これは泰淳も好みだったが、彼の一番の関心事は富士山麓の赤い溶岩の収集だった。もちろん百合子の運転で探しに行く。今では禁止されていると思われるが。
寄宿舎生活の娘花子との学校休暇ごとの絆も良い関係。
3巻目の終わり頃になり、泰淳が病気になってからの日記には記録内容は変わらないのに勢いがなくなり、記録が途絶えたところもある。泰淳の身体を心配する気持ちが何気ない所作の文章からひしひしと伝わってくる。
夫に捧げ尽くした妻の愛の深さが、単純な出来事の文章の羅列なのにひしひしと読者の胸に伝わってくるのは他に類を見ない日記と思った。
夫を始め夫の友人、山荘のお世話をする職人たち、四季折々の草花、生き物、愛犬ポコ、小鳥、カエル、虫に対する純粋な愛情を、豊かに醸し出す文の力には驚かされ良い本との出会いだった。
田村俊子賞を受賞した。

カテゴリー: ノンフィクション パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です