死という最期の未来

「死という最後の未来」 石原慎太郎 曽野綾子 対談集 幻冬舎
神を信じない石原慎太郎(87歳)と神を信じるカトリック教徒の曽野綾子(88歳)の死生観を、ディベートゲームのように楽しく語り合う対談集で、大変面白かった。
・はじめに
 “はじめに”の言葉は石原慎太郎さんが書いています。
  ・・・中略・・・
  人間80歳をすぎると誰でも紛れもなく迫ってくる「死」について予感したり考えたりします。
  ・・中略・・
  老いてこその生き甲斐を積極的に求め、自ら作り出すことこそが晩節を彩る術だと改めて思います。
・第1章 他人の死と自分の死
  ・・・・・
・第2章 「死」をどう捉えるか
  ・・・
石原「死は人生との決定的な別れですからね。去りがたいですよ、この世を」
曽野「死ぬのは自然なことですけれどね」
石原「つまらん。つまらんです。」
曽野「だから、その日が来るまで、存分になさればいい。私は50歳になった時から、寝る前に「3秒間の感謝」というものをするようになりました。もしもその夜中に死んだとしても、けじめをつけたことになるでしょう。死ぬということは、いい制度だと思いますよ。」
石原「いい制度?」
  ・・・
・第3章 「老い」に希望があるのか
  ・・・・
・おわりに
“おわりに”の言葉は曽野綾子さんです。
  ・・・中略・・・
 石原氏が、80代以降をどう生きようとされているのか、私は知らないが、氏のことだから、1仕事も2仕事もされることだろう。一方私は、流されて生きるのが人生、と思い続けてこの年まで生きてしまった。
  ・・中略・・
 人は現世で、なにごとにも十分に出逢ってから死んだほうがいい。楽しい出来事ばかりでもなく、必ず気の合う人だけに会えるわけでもないが、そうした経過があってこそ、人は深い人生を感じて最期を迎えられるのだろう。

ふたり真逆の「死生観」を、相手の意見に逆らうこと無く、理解を示しながら穏やかに、しかし一切の妥協はなく、楽しく展開される対話は、横で「うんうん。なるほど。でも~っ。」と聞いている感じでとても楽しかった。

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