幸福の選択

幸福の選択 佐江衆一著 新潮社
昭和八年生まれの主人公津村昭二は、私より10歳ぐらい年長だけれど、同じ時代に生きてきた者として感慨深く読んだ。終戦時は情報も少ない時代だったとはいえ、同じ日本でこんなに戦争で過酷な人生を歩まなければならなくなった人が何万人もいたことを、空襲にあわなかった京都でのんびり(親は必死だったらしい)過ごした私は、同じ日本人としてはっきり知り得なかったことを恥じている。
先日も藤原ていさんの「流れる星は生きている」という満州からの3人の幼子をつれての過酷な引き上げ体験小説を読んで感銘を受けたばかりで一層自分の無知を認識したのだった。

1993年2月60歳を迎えた昭二は、職場の仲間に惜しまれながら定年を迎え退職することになった。
さてこれからの人生をどのように生きるか?というのがテーマである。

昭和19年(1944年)夏、東京では空襲のおそれがあるといって23万人の3年生から6年生の子どもたちを集団疎開させることを決めた。浅草に住んでいた小学校六年生の昭二もそのうちの一人だった。家族は両親と出征中の兄と5歳の妹で昭二だけ集団疎開にいくことになり同級の友とともに東北で過酷な集団生活をおくることになった。10ヶ月後の3月8日になって夜行列車で六年生だけは一足先に親元に帰れることになり、喜んで9日早朝、家族のもとに帰った。両親と妹の四人家族。無事を喜び合ったが東京は空襲警報が絶え間なく発令され危険な状態だった。翌10日は陸軍記念日で空襲されるかもしれないから気をつけなければと話あって眠りについたが夜半に空襲。1665トンの高性能焼夷弾を満載したB29325機が東京の下町を襲ったのである。それからは阿鼻叫喚。逃げ惑う中母妹、父親とはぐれ、生き残ったのは家族で昭二のみ、彼の周りは死体と燃え尽きた焼け野原だった。その日だけで死者83,700人負傷者4万人余り、罹災者108万人にのぼった。

戦災孤児、戦災浮浪児となった昭二は、同じ境遇の戦災孤児と共にがむしゃらに飢え死にしないで生きるために知恵を働かせて生きてゆく。
国の戦災浮浪児一斉取り締まりにかかった昭二は遠縁の親戚に無理やり引き取られ下僕のように働かせられながら勉強し高等学校を卒業し東京に家出をする。

そこで浮浪児時代に進駐軍相手に靴磨きなどで鍛えたアメリカ英語を武器に働き口を必死で探しコピーライターとして生きてゆく。

そのころ集団就職で山形から上京し東京で働く祐子を見初め結婚し二人の子どもに恵まれ30年ローンを組んでマイホームも手に入れ日本の高度成長に乗っかり企業戦士となって収入も安定し定年を迎える。

昭二には立派に生き抜いてきたという自負があるけれど、自分に正直な仕事を生きがいにして生きてきたという実感がない。二人の子どもの教育は妻の祐子に任せ、昭二の気づかぬまま子どもは成長し妻の祐子も栄養士の資格を取り親の介護に関わり自立している。昭二のお陰で生きてきたという気配はない。昭二は家族から期待されず気持ちはひとりぼっち。これから何を生きがいに生きていくことになるのだろうと、自分の生きてきた道を逡巡しながら模索する。

昭二の場合は、出発点が戦争孤児という過酷な状況から始まりますが、戦災から復興の高度成長期に生まれた現在の団塊の世代の人々も、今定年退職期を迎え、生きがいを求めて右往左往して同じ問題を抱えている。

昭二は生涯を振り返って、人生には幾つもの節目がありその節目で幸福に生きる道を選択して行きてきたなあと気付く。

その節目で選んだ道は自分にとって幸福の道だったのか?

同じ仕事仲間の売れっ子だったコピーライターが若くして自殺し、残した遺書
・・・・
リッチでないのに
リッチな世界などわかりません
ハッピーでないのにハッピーな世界など描けません
「夢」がないのに
「夢」をうることなどは、、、とても
嘘をついてもばれるものです
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昭二は、これからの人生は自分が正直に求めているもの、人々が求めているものに向き合い余生を過ごそうと決意したのであった。

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