お父やんとオジさん

「お父やんとオジさん」 伊集院静 著

著者の両親は戦前に朝鮮から日本に渡ってきた在日朝鮮人(韓国人)でした。

戦前、日本からブラジルや台湾などに多くの人々が楽園を求めて渡っていったように、朝鮮から日本に夢を求めて渡ってきた人々が大勢おられたということの実態をこの物語で初めて知りました。

朝鮮から日本に移住した人々多くは差別や貧困から辛酸を嘗め尽くした過酷な生活だったようです。

それでも第二次大戦をくぐり抜けしっかりした生活の基盤を作った人たちもいました。

著者の父はそのうちの一人で、著者が生まれた1950年には日本では戦争後の復帰がはじまり落ち着いた家庭になっていました。

しかし「父は生涯、この話を私にしなかった。母は『お父さんは私の弟を助けてくれた』としか語らなかった。法を犯したことだから」と聞いていたが自分のルーツが知りたくて、父の側でずっと父を支えてきたミシゲンさんから聞いた話をまとめた物語です。
この物語に大きく占めているのが朝鮮戦争(1950年~1953年)のことです。

私は朝鮮を北と南に分裂させることとなった朝鮮戦争のことを深く知りませんでした。韓国内の民族戦争のようなものかなと漠然と思っていましたがそれは間違いで、ソ連がバックにいる北とアメリカ(国連軍)がバックにいる国際戦争であり、朝鮮人民は北方の国民も南方の国民もごっちゃに戦争に巻き込まれてしまって国民全てが自国の戦乱に翻弄され酷いものとなった戦争でした。日本はそのお陰で戦争特需といって、武器の輸出、アメリカ軍への食料の輸出、舟の回旋などで日本はとても景気が良くなり高度成長の先駆けになったのです。

この長編「お父やんとオジさん」をまとめるに私の手にはおえないので、2010年7月5日 読売新聞に紹介されたという記事をネットで見つけたのでコピーさせていただきます。

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 塩田が広がる瀬戸内の小さな港町、三田尻(山口県防府市)から話は始まる。13歳のとき日本へ渡り、町に住み着いた著者の父がモデルの主人公<宗次郎>は終戦後、海運などの事業を広げ、4人の子供に恵まれていた。
 しかし、1950年に朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)し、日本から祖国へ戦後引き揚げた妻の実家から、助けを求められる。妻の弟<金五徳>は北朝鮮のスパイをしたと疑われ、自宅の鶏小屋の下に掘った土の中の穴に隠れているという。
 軍艦や哨戒艇のうごめく海峡を越え、父は救出へ向かった――。
 「父のもとで働いた人に話を聞いたとき、最初は信じられなかった。なぜ、仕事も家庭も順調な人が、妻のために命の危険を冒したのかと。韓国にも取材へ行きました。雑木林や松林の続く山並みは中国山地と似ている。でも、簡単に歩ける場所ではなかった」
 山の尾根を伝い、渓流の水で渇きをしのぎ、ゲリラを避け……。修辞を削(そ)いだ文体で、決死の救出行が刻まれる。金五徳と再会した彼は、民主主義と共産主義のイデオロギーに悩む義弟に言った。
 <生きていれば希望はみつかる>
 「思想より実践。まず生きること。それは、文筆業を30年やってきた僕のテーマでもあります。大学時代に弟を海で失い、前の妻(夏目雅子)を早く亡くしました。人間は息が途絶えた瞬間、夢が消える。親を悲しませる。でも、生きてさえいれば何か光が見える」
 「この作品はよく『在日』一家の話と説明される。でも僕は、時代が特殊なだけで、家族を守ろうとした普通の父親の話を書いたつもりです。宗次郎のような勇気は誰の中にもあると信じています。

 父は一昨年、91歳で往生を遂げた。来日後、一代で事業を築いた男は威圧的で、学生のとき家業を継がないと宣言した伊集院さんと取っ組み合いのけんかもした。
 「負けたくない気持ちはずっとあった。だが、作品を書き終え越えられないと思った。親は越えるのでなく、その人生や家族を思う心を受け継ぐものではないか」
 かつては寡作と言われたが、還暦を迎えて、失敗を恐れることをやめた。「僕の文体に完成形はない」とも語る。少年向け野球小説『スコアブック』(講談社)、俳人の正岡子規を題材にした「ノボさん」の連載を「小説現代」で始めるなど、旺盛な執筆をこなす。
 中でも、祇園の舞妓(まいこ)と大学生の恋を描く『志賀越みち』(光文社)は純愛の美しさ、愚かさを、結末の一点に向かって凝縮した珠玉の作品だ。しかし、その感想を伝えようとすると……。
 「35歳から3年、京都に住んだんですよ。そのとき競輪場によく通ってね、僕。タクシーで片道5000円だから、100回通えば往復で100万円。いつか小説で返してやろうと思ってね。アハハ」
 大きく笑って、遮った。作家の文章に気品を漂わせるのは、この含羞(がんしゅう)である。

 

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世界国々には報道だけではわからない戦争に翻弄されている人々の暮らしが今も営まれているのに違いないことをこの歳になって気付かされた貴重な本だった。

文中の<生きていれば希望は見つかる>という言葉を胸に刻みつけた。

 

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